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現実を操るために [願望実現]

現実を操るためには、あなたは夢のなかで目を覚まし、真のリアリティの存在を思い出す必要がある。軌道上にいる宇宙飛行士たちはこの世のものとは思われない夢を見ている。ある宇宙飛行士は、公表された自身の日記のなかで、次のように書いている。「よくなにかの恐ろしい夢を見る。驚いたことに、動機や関連性が何もないのだ。きわめて複雑なコンピューターである脳が疲れて調子を狂わせたか、それとも外部から、つまり、あらゆることが書き込まれ永久保存されているこの世の情報フィールドから、情報が舞い込んだようだ」。通常の人間の意識の範囲では決して生まれるはずのないような夢を見た後では、この宇宙飛行士が可能性の空間の存在に関する公理を聞いても、驚きはしないだろう。

人間の知覚モデルは、カルロス・カスタネダやテウン・マレスの著作に上手く表現されている。そこには、アトランティス大陸からの最後の移住者であるとされるトルテック族の世界観が記されている。彼らの教えによると、人間はたくさんの繊維から成る光り輝くエネルギーの繭によって取り巻かれているという。すべての繊維は肩甲骨の辺りで集合点と名付けられたひとつの焦点に集まっている。この集合点の位置が近くの方向性を定める。

もしこのモデルを並行世界移動の概念と両立させると、集合点が正常な状態にある人は、通常のリアリティを知覚することになる。このような状態では、現実化されたリアリティは、可能性の空間にある然るべきセクターと合致している。もし集合点が脇へずれたら、同期化が乱れ、人は現実化されていない領域にあるセクターを知覚するかもしれない。普通の人々の場合、集合点の位置はしっかり固定されている。何らかの理由で固定されなくなると、集合点はぶれ始め、その人には霊能力が現れてくる。ところで、もちろん夢見もまさしくこの集合点の移動によるものなのである。この知覚の焦点が脇へずれたりしないことが肝心であるだけでなく、また、もしずれても元の位置に戻ることが大事なのだ。さもないと、異常な状態であり続けるかもしれず、精神錯乱と呼ばれる症状が起こってしまう。

意図的に自分の集合点を動かす能力を持っている人は、意識して見る夢(明晰夢)のように、リアリティを操ることができる。もしリアリティに対する支点を自分に取り戻す、すなわち自分が本当は誰なのかを認識すると、リアリティを操る能力はひとりでに現れてくる。しかし、本当の自分を認識することは簡単ではない。有名人のなかで悟りを開いた人は、指で数えるほどしかいない。悟りとは、初めは見知らぬ町の曲がりくねった狭い路地を当てもなくさまよい歩いた後に、空へさっとまいあがり、すべての地形を自分の手のひらのごとく俯瞰し、目的への道がすぐに明らかになることと似ている。

鳥が飛ぶ高さまであなたを持ち上げたりはしないが、たとえ目を閉じてでも進むことのできるルートをあなたに指示してくれる。夢の中で目を覚ますためには、原点が必要となる。もうひとつのリアリティ、つまり真のリアリティが存在することをあなたが思い出すと、今見ているのは夢なのだと理解する。原点となり得るのは、人生において、もし一段分が駄目なら、たとえ半段分でもよいから、意識性を高めることができるという知識だが、それはもう決して小さなことではない。

ほら、いつものようにあなたは通りを歩いているか、誰かとおしゃべりしているか、あるいはお決まりの仕事に携わっている。目を覚ますのだ!周囲を見回して、起こっていることを冷静に眺めよう。あなたは自分の意図によって自分の世界を必要な軌道に乗せる能力を持っている。あなたは自分のリアリティを操ることができる。しかし、それは夢の中での出来事とは似ていないだろう。あなたの意志のちょっとした動きにも反応して、筋書きが優美に変わっていくようにはならない。物質的現実化はタールが動くようにゆっくりと進むのだが、法則を利用すれば、それを制御することは可能だ。そして、まっさきに行うべきは、目を覚ますということなのだ。

どの人生でも、すべては神の夢見が、その視点となるということ。リアリティを夢として認識してみよう。意識してみる夢の場合のみ、あなたは状況をコントロールすることができる。あなたが覚醒状態のまま眠っていると、状況をコントロールしているのではなく、ペンジュラムと闘っていることになる。観客席に下りて行き、観察してみよう。自分をリースにだし(自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしないこと)、観察者のままで、少し距離を置いて行動しよう。

意識性のレベルを維持するためには、自分の思考の進む方向を常にコントロールすることが不可欠だ。これが習慣として身についたら、努力しなくても、自動的に行われることになる。なにしろ、あなたが自分の夢見のなかで目を覚ましたとき、これは夢に過ぎないという自分の自覚を維持する努力が必要なくなるのだ。これとまったく同様にして、覚醒しているときでも、思考の方向のコントロールのやり方を習得することができる。だが、そのためには習慣が根づくよう、最初のうちは「目を覚ます」ことを定期的に自分に強制する必要がある。

少し距離を置いて行動すべきだということを覚醒状態のときに思い出すようになると、あなたは自覚を持つ、すなわち、舞台から観客席へ下りて行くか、それともプレイする観客として舞台上に残ることになる。これこそが意識性の半段分であり、残りの法則を実行するにはそれで充分なのだ。残りの法則のうちで最も重要なのは、重要性のレベルを引き下げ、可能性の流れに従って進む、それに調整である。これらの法則は、人生で起こる状況の迷路のなかを、あらゆる不快なことを避けながら、目をつぶっても確信をもって進むことを可能にしてくれる。

もし可能性の空間のどこかに次の人生を始めるに当たっての支点があって、それに対しては今のこのリアリティを夢見とみなすことができるのであれば、その原点のそもそもの始まりは何なのだろうかと質問してみよう。どうやらそれは神自身のことなのであろう。それぞれの生き物の魂は神の一部である。また、どの人生もすべてが神の見る夢なのだ。さらに質問を続けることもできる。では、神自身には支点が存在するのだろうか、と。

この問題で頭を悩ますのは、希望が満ち溢れている人々におまかせしよう。次の質問もこれと似たような空しさを伴うかもしれない。目に見える宇宙の向こうには何かがあるのだろうか、という質問だ。私たちはこの答えを知ることはないだろう。それは、アフリカで花の蜜を集めている蝶たちが、アメリカにも花が咲いていることを知ることはないのと同じである。この世界は今のままでも十分に美しいとは言えないのだろうか?そんなことはない。なぜあらゆることへの説明をこの世界に求めるのか。手の届くところにある花の蜜をただ楽しむだけでよいのだ。

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