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高い意識性と隷属化 [願望実現]

流れは自分の信奉者たちを要職に就けるが、それは彼らが大きな業績を上げたからではなく、システムによりぴったりと当てはまるからである。出世階段、とりわけ権力の階層組織では、人々が各々の秀でた能力と業績に応じて並べられるはずと考えるのは無邪気すぎる。ある程度はそんな傾向もあるだろうが、秀でた能力や業績が主な理由なのではない。

主な基準となるのは、人がどれほどうまく自分の仕事をこなすかではなく、システムの観点から見て、どれほど正しく行うかにある。流れはまず何よりも安定性に腐心する。まず第一に、システムの安定性の維持に向けた行動をとらなくてはならない。

もし出世階段を上っていきたいと思うなら、「うまく」と「正しく」の間の違いを理解すべきである。今述べていることは、具体的な集団によって異なる。流れにもいろいろな種類があるからだ。

小さな集団では、創造性、独自性、熱意、イニシアチブが歓迎されることもあるだろう。しかし、集団が行政機関や大企業である場合、そこではまったく別の決まりと、まったく別の倫理---企業倫理---が働いている。

企業倫理というのは、より厳格な法規制、規律、処理能力を前提とする。イニシアチブを発揮すると、しばしば罰せられ、独自性は警戒心をもって迎えられ、創造性は決定的な役割を果たしはしない。そのようなシステムでは、「よりうまく」ではなく、「より正しく」行動することが必要になる。

このように、自分の行動を流れの世界固有の文化風土とよく考えあわせつつ、意識して柔軟にふるまう必要がある。しかし、そうすることは、思ったほどむずかしくない。大事なのは、ちょうどよい頃合いに目を覚ますことだ。

科学技術の進歩は、全体としてはそれほど恐ろしいものではないのだが、恐ろしいのはその情報の中身である。それは流れたちが誕生し存続するための恵みの土壌となるからだ。同じ方向を向いて思考する信奉者集団が大きくなればなるほど、流れは強くなり、従って、流れが人々を支配する権力も肥大化する。

非常にたくさんの人々の意識を支配するためには、有名な映画「マトリックス」に出てくるような吸盤つきのフラスコ状容器に人々を閉じ込めておく必要は決してない。何でもありの情報網を作るだけで十分なのだ。そうすると、人々は自らその組織単位のなかに自分の居場所を見つける。

では、人が情報網の組織単位のなかに居場所を見つけるというのは、どういうことだろうか。それは、いわゆる社会分子のことであり、マトリックスを想起させるような構造における本人の状態によって本人の意識が制約を受けるということだ。

構造は、思考や行動の固定観念の一定の組み合わせによって、各メンバーを知らず知らずのうちにしっかりと包み込む。人は自分がみずからの意志で自由に行動しているものと思う。けれども、人が自由が本当はどういうものか知らない。なぜなら、その人の意志の「輪郭」は構造によって形成されたものだからだ。人は、その人に割り振られた意志に従って、押し付けられたゲームをしている。

一見すると、誰にでも欲するすべてのことを行う自由があるように思われる。宣言文に記されている自由とはそうしたものだ。ただし、各人が欲することができるのは、構造の利益と合致していることだけである。構造は必要とされることを欲するよう教え込む。

まさしくこの意志(意図)の隷属化プロセスについて話しているのである。このプロセスは流れ自体が意識された意図を持たないことから、その性質上、共同作用的、すなわち自己編成的なものである。凍結すると氷の結晶ができあがるように、すべてはひとりでに起こる。寄生植物のコロニーにも似た、流れたちの網は、地球の生物圏全体を包み込んでいる。

恐ろしいと思われただろうか。あるいは滑稽に聞こえるかもしれない。どういう感想を持つかは各人にお任せする。こうした考察を空想小説と思うのも各人の自由だ。そうはいうものの、日常の現実が見たこともない形で眼前に現れると、その残酷なリアリズムが最も大胆な空想小説をも超越していることがある。

インディゴの子どもたちの賢さは、高い意識性の結果である。彼らは周りで何が起こっていて、誰が重要なのかということをはっきり理解している。注意を向ける方向が、外部世界ではなく、自分になると、意識性は研ぎ澄まされる。なにしろ、人は外部から押し付けられた心配事で頭がいっぱいになると、無意識に参加しているゲームにすっかり浸りきってしまうのだから。子供たちの意識性は、流れの網のなかにいる人々の「意識麻痺」の傾向と対峙するものだ。

すべての子供は、生まれながらにして、輝かしい個性によって際立っている。まだ幼少時の子供たちはとても可愛らしくて魅力に溢れている。子供たちの魅力の秘密は、魂と理性との調和のとれた一体性にある。彼らはあるがままの自分を受け入れているため、生来持っている魂の美しさは、理性の偽りのマシクによって歪められてはいない。

成長するにつれて、なぜこんな素晴らしい存在であるはずの子供たちに、不愉快な特徴や悪い面が現れてくるのだろうか。なにしろ彼らは神の子供たちなのであるから、生まれたての頃の寄る辺なさにもかかわらず、神自身のように美しく強いのだ。彼らは初めから創造主の力を持ち、新たなリアリティを築き上げる能力を持っている。ところが、神の子供たちの能力が開花し発揮される間がないのだ。なぜなら、流れたちが、子どもたちの持つ神の力である魂と理性の一体性を奪ってしまうからだ。

子供たちはこの世界にやってきて、ビーズ玉のような両目を大きく見開き、信頼に満ちた澄んだ眼差しで世界を眺める。彼らにとって人生は期待と希望に満ちていると思われる。しかし、この世界では「分割統治」の原則に従って活動する流れたちが支配権を握っている。

流れたちは人々の思考とその方向性をひとつにまとめるが、その際、人格の独自性や一体性を破壊する。理性を魂から分離し遠ざけると、神から授かった美しさと力は失われていく。

時間が経つにつれて、あらゆる希望は裏切られていく。ある者にとってこのプロセスはゆっくりと痛みを伴わずに進むが、不運な者にとっては急激に残酷に進む。孤児院の子供たちの目を眺めてみると、希望と絶望という二つの相容れないものを同時に読み取ることができるような気がする。彼らの目には、「え、本当に?」と言う果てしなく繰り返される疑問がまるで張り付いているかのようなのだ。

流れの世界は、子どもたちが脆弱で不完全なことを常に彼らに示す。最初、彼らの意識には不信が芽生え、その後、恐怖も生まれる。恐怖はしっかりと根付き、それに慣らされていく。怖いからといって逃げ出すことはできないのだ。この好戦的な世界で何とかして生き抜かなくてはならない。構造の強力な影響下に置かれている神の子供たちは、構造の成員にならざるを得ないのだ。

子供たちは成長するに従い、皆と同じでないことに不安を感じるようになる。なぜなら、「皆と同じ」者たちが彼らに「いいがかりをつけて苦しめる」ことがしばしば起こるからだ。群衆のなかにいるとまだ安全なのだ。ところが、もし群衆の外側に立っていると、仲間外れにされるかもしれない。こんなふうにして、子どもたちは生まれながらに持っていた独立心、意識性、直観、個性という天賦の才能を少しずつ失っていく。





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