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理性の疑念と目的の歪み [願望実現]

あなたはすでにイメージの法則を使いこなせると仮定しよう。だが、時間が経つのに、何も起こらない。手紙を出したはいいが、返事は一向に来ないようなものだ。理性は落ち着きなく寝返りを打ち始める。我慢できないのだ。ひょっとしたら間違ったことをしでかしたのだろうか。それとも、すべてはたわ言だったということか。実は、世界はひとところに留まっておらず、鏡に映し出される姿の物質化プロセスが進んでいる。ただこのプロセスは目立たないため、何も起こらないように思われるのだ。こんな時、理性は、鏡が遅れて反応するという知識と、直接的行動の後ですぐに結果が現れる相関性を見ようとする慣れ親しんだ習慣との間で、揺れ動く。もし結果が見えなければ、理性は何を思うだろうか。思考上の仕事が非効率であったか、それとも、正しいやり方ではなかったか、と思う。では、そのような場合、鏡は何を映し出すだろうか。まったく同じことを、だ。こうしてプロセスは停滞するか、またはあらぬ方向へと逸れていく。理性と世界との間では、おおよそ次のような対話が予想できる。

「おもちゃが欲しいよ」「もちろんです、小鳩ちゃん、知っていますとも」「だって、約束したじゃないか」「そうですよ。あなたが頼んだから、私はおもちゃが手に入るだろうと言ったんです。察するに、おもちゃが手に入るだろうと言ったことで、あなたは十分満足した様子でしたね」「違うったら。僕はおもちゃが今この瞬間に欲しいんだってば」「ええ、わかっていますとも。あなたは今おもちゃが欲しいんでしょ」「じゃあ、いったいどこにおもちゃがあるんだい」「本当に、どこでしょう」「どちらかがバカだということかい」「確かに」「コンチクウショー。お前はただの間抜けな鏡だってことを忘れていた。ええと、どうやって頼むんだっけ?あ、そうだ、思い出した。お前は私におもちゃをくれる、だ」「承知しましたよ、私の大切な人」「といことは、僕はおもちゃをもらいに出発するところ、だよね?」「もちろんですよ、愛しい人、さあ私の手を取って」

こうして、二人は欲しいと思っているおもちゃを求めての旅に出発するところである。あとは忍耐心を持ち、自分の時間を心躍る準備作業に捧げるだけとなる。魂はうきうきし、理性は満足そうに揉み手をする。満足しないなんてことがあろうか。なにしろ世界と一緒におもちゃを求めて進んでいるところなのだ。次のことを理解するべきだ。行われた選択は、必ず実現されることになる揺るぎない法則に変わる、ということを。そのために必要なのは、注意を最終目的に固定しておくことだけなのだ。ところが、人はいつまでもそうしてはいられないものだ。「ねえ、僕たちはあそこへ向かって進んでいるんだよね?何だかおもちゃ屋は見えてこないようだけど」「心配ご無用、私の大切な人、もうすぐですから」「それはいつなの?入口が違ったような気もするけれど」「そう思いますか?」「ああ、やっぱり道に迷っちゃった」「あなたの言うとおりにしていますよ、小鳩ちゃん、知っているでしょ、私がいつも同意することを」「鏡のバカ。よくわかったよ、お前はまったく頼りにならないヤツだ。どこへ連れてきたんだよ?」「ただ途中で公園に寄りたかっただけですよ、ついでにメリーゴーランドで遊んでもらおうと思って」

もし人が目隠しされたまま歩かされると、頼りなく感じる。人の理性は、何も起こらない状況や、あるいは、ものごとが思ったとおりに展開しない状況とは、どうしても折り合いをつけることができない。理性は人工頭脳を持ったロボットに似ている。もし処理作業の演算規則に反することが生じると、赤いランプが点灯するのだ。理性が人工頭脳と違うのは、理性自体がすべての展開を事前に見通すことができると無邪気に思い込んだ上でプログラム--シナリオ--を作り上げる点にある。理性は固定観念に染まった行動プログラムを示すだけでなく、それに固執するというところに、所謂、良識と呼ばれる物の考え方の原始性がある。

選択が行われた、すなわち最終的な目的=イメージが選択されたその瞬間、世界の鏡は注文を受け取り、定められた計画に従って中門の実現に着手する。どのような手段でイメージの反映が創られるかを知っているのは鏡だけであり、理性はこの道筋についてはあずかり知らない。ところが、事象が何らかの奇妙なシナリオによって展開しているのを目にした理性は警告を発し始め、その人は世界の胸座を取る。何か手を打たなければ、というわけである。心の底で本人はどうせ何にもならないだろうと思い、そう思うことで形は歪む。それに加えて、自分のシナリオを擁護する行動に出るので、本人には知らされていないが、本当に成功へと導いてくれるはずの計画の実現は邪魔されるばかりとなる。理性は頑迷固陋なのである。こうして人は、目的まで通じているはずと思われる自分のシナリオをぎゅっと握りしめて放そうとせず、目的が実現することを自分で許さないのだ。しかし、これですべてではない。早くおもちゃをもらいたいという自分の抑えのきかない願望によって、人は過剰ポテンシャルを急激に高めるため、鏡は文字通り歪んでしまう。歪んだ鏡から何を期待できようか。



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