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贅沢品にふさわしい人間になる [願望実現]

ポジスライドは、自分個人に関してだけでなく、取り巻く世界に関しても作ることができる。そのようなスライドはポジティブなものはすべて中に入れ、ネガティブなものはすべて排除する。どんなことがあっても、ありとあらゆる好ましいことに心を開き、悪いことは全部無視しよう。展覧会では気に入った展示物のそばで足を止めるのであって、気に入らない展示物があっても平然と素通りしよう。ちなみに、取り巻いている世界が展覧会と異なるのは、もし平然と素通りできないときに、ネガがあなたの後を追っかけてくるという点である。では、ポジはどうか?もしあなたが喜んでそれを受け入れるのであれば、常にあなたと一緒に居るのだ。ポジスライドはバラ色のレンズを使ったメガネに似ていると思われるかもしれない。異議を唱えて申し訳ないが、バラ色に見えるメガネを発明したのは悲観論者であって、楽観論者ではない。しかもその悲観論者はお節介にも、そのメガネを通すとすべてがバラ色に見えることを心配し、楽観論者に教え諭すよう警告する。こうしたお節介は、ネガスライドによる影響にほかならない。悲観論者は、思い切ってそうなろうとする踏ん切りがつかないため、それに応じたものしか得られない。ポジスライドも知覚を歪めるのではないかとの心配は無用である。大部分のケースで歪曲はそれほどではない。なぜなら、大半の場合、内部のコントロールが利いているからだ。ポジスライドによって引き起こされた歪曲は、利益となるようにだけ働く。もちろんあなたが自分のことをナポレオンであると思い込んでいるのならば、話は別である。すべてにおいて十分に節度を守り、過剰圧力のことを思いだすことが必要だ。ネガスライドは、それによる歪曲によって、計り知れないほど大きな害をもたらす。しかし、歪曲はまだ最重要な注意事項ではない。スライドを取り扱う際に最も慎重を要することは、外的意図がスライドをゆっくりではあるが着実に現実化していく点である。

あなたにはスターや大金持ちになるという野望があるとしよう。ところで、あなたは所有することを自分に容認する心構えができているだろうか。通常、人々は、名よ、お金、権力というものは選ばれた者に与えられると考えている。では、誰がそのような者を選ぶのだろう。まず最初は、彼ら自身が自分を選び、その後になって、残りの人々が彼らを選ぶのだ。もしあなたが何かについて夢想していても、それを所有することを自分に容認する心構えができていなければ、あなたはそれを手に入れることはできない。通りにいるホームレスが、クリスマスを祝う食卓を窓越しに覗いている。彼には、そのテーブルに就いて食事することを自分に容認する心の準備はできているだろうか。もし彼が招待されたら、もちろんそうするだろう。その家へ行き、テーブルにつくのは、行動する決意、つまり内的意図である。だが、いったい誰がホームレスを招待してくれるのだろう。ホームレスの方もそれを十分に承知している。クリスマスを祝う食卓は、彼にとって自分とは縁のない世界の層に存在しているのだ。彼はこの食卓を自分の家、つまり自分の世界の層に持ち込む心の準備をしているだろうか。いいや、そのホームレスは、家もなく、お金もなく、お金を稼ぐ術もないことを知っている。外的意図は彼に何もしてくれない。なぜなら、親しみ馴染んだ常識の枠内に留まっているそのホームレスには、それを所有する心構えができていないからだ。あなたがお金持ちになりたいと仮定しよう。ところで、あなたには運命からそのような贈り物を受け取る心の準備はできているだろうか。もし誰かが「要らなくなった」大金をあげるというのなら、もちろん誰であっても問題なく躊躇せずにもらうだろう。財産は人生を害するわけではない。時折、教訓めいた映画では別の結論を導きだそうとするようだが、私はそんなことを言いたいのではない。あなたにはこの大金をつかむ心構えがあるかどうかを問いたいのだ。大金は汗水流して稼ぐか苦労して勝ち取るかするものだと、たぶんあなたは思っていただろう。私はそんなことを言いたいのでもない。私が尋ねたいのは次のことだ。あなたはただ単に選択するという心構えができているだろうか?大金を所有することを自分に容認できるだろうか?

あなたは自分の目的を達成するという考えを受け入れる必要がある。もしあなたが経済的に満ち足りた生活を送りたいと思っても、高級店に立ち寄ることが苦手なら、何も変わらないだろうか。高級店に入ってわずかでも落ち着かない気持ちがすれば、あなたは高級品の所有を自分に容認する心構えができていないことになる。高級品店で働く店員は、本物の客かただの冷やかしかを瞬時に見抜く能力に長けている。本物の客は主のようにふるまい、物腰が穏やかで、自信たっぷりで、威厳に満ちており、自分の選択する権利を認識している。好奇心と購買移植は旺盛だが懐がさびしい人は、招かれざる客のようにふるまう。緊張して、どこかぎこちなく、おどおどしていて、店員から自分に向けられる値踏みするような視線を察知し、こんな有名店に自分が訪れたことに対し、ほとんど謝罪してしまわんばかりになっている。その人は物質的な豊かさを自分に容認する心の準備が整っていないだけでなく、自分は高価な品々を所有するに値しないとさえ思っている。理性が魂に言っていることを魂は正確に理解している。理性は同じ台詞を繰り返す。「これらすべては我々のためにあるのではない。我々は貧乏人だ。我々にはもう少し慎ましい別のものでいいのだ」自分はこうした贅沢品全部を所有するにふさわしい人間だと認めてあげよう。本当にあなたにはあらゆる最上のものを持つだけの価値がある。「身の程をわきまえるがいい」とあなたの耳元でささやくのは、あなたをコントロール下に置いた方が都合の良い破壊的構造である。勇気を出して高級品店へ出かけ、豪邸で働く使用人ではなく、豪邸の主人のような気分で商品を眺めてみよう。自分にはこれを買うことができると自己暗示をかけようとしても、もちろん無駄なことだ。自分を欺いてもうまく行かないなら、そうすることは不要である。では、所有することを信じて自分を容認するには、いったいどうすればいいのだろう。

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