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思考の制約を外す [願望実現]


今までの私たちの歴史は、「感情を体験して学ぶ時代」でしかたら、私たちは実にたくさんの感情と人生ドラマを創ってきました。そのドラマの主人公のキャラクターになりきって演じてきました。感情ドラマを体験するために、わざわざ辛い感情を創る必要があり、そして、その感情毒素を癒すという必要性もあったのです。

ただ、今まではそうでしたが、これからは、永遠に続く真のエクスタシー(生きる喜び)を体感して学ぶ時代に入ります。いちいち辛い感情を創っては癒すという必要がなくなったのです。過去の私たちは、価値観を二極化させて、不自然で苦しい感情を学ぶための、「体験の場を開く」ことは得意でしたが、「体験の場を完了して閉じる」という方法を、完全に忘れてしまったのです。どうぞ思い出していただきたいのですが、ただ単に、「あらゆる感情の全てがOKだ」と認めて受け容れるだけで、「苦しい体験場」は閉じます。

あなたが、二極化した価値観を等しくバランスさせて、全面的に生きる喜びになってしまうと、全ての感情の傷が一気に癒されてしまうからです。そういう時代が、もう、目の前です。地球に降り注ぐ光のツブツブの量が、ものすごく変化してきているのです。光そのものが持っている生きる喜び(真のエクスタシー)がパワフルになってきているのです。ですから、この新しい光の波の質に乗り遅れないようにしてください。光の波の質は、喜びでもあり、大いなる豊かな愛でもあり、私たちはこの光の波が不足する時に、強い飢餓感を覚えるのです。そして、お金、食べ物、SEX、ギャンブル、知名度、名誉などを激しく欲する心になります。

そして、いろいろな思考を使っていると、新しい光の波に間に合いません。今までのように、ジャッジしたり、批評したり、理屈を言ったり、あるいは、悩んだり、葛藤したり、疑っていると、新しい光の波に乗れません。

つまり、新しい「今ここ」という時を創ってくれる、光の波や光のツブツブを受け取れないということになります。新しい光を受け取れないわけですから、当然ながら新しい体(進化した体)になれないし、新しい脳(進化した脳)になれないし、新しい血液や新しい自分自身が創られない。

思考、理屈、判断、分析などは、「限定された特定の周波数」ですから、決まりきった現実しか創れません。世間が当たり前だと思っている常識の範囲でしか、現実が起こりません。自分で勝手に思い込んでしまった「無理」「不可能」「だって、できない」などの思考の制約を外してください。

判断や分析のエネルギーは、私たちを無条件の愛や喜びにアクセスすることを制限するようなエネルギーなのです。ですから、エネルギーの種類を見極めるための「識別力」を持つ必要があります。混同していただきたくないのは、「識別すること」は、「判断すること」とは違うものだという点です。

どのような質のエネルギーなのかを見極めるという意味の「識別力」は、中立で公平な力であり、自由になるためのツールですが、「判断すること」は不公平なツールなのです。

是非とも、自由でイキイキとした気持ちをあなたから奪うような判断理論やプログラムを中立に「識別」し、分別して、喜ばしくないものは捨て去るようにしてください。「識別」はあなた次第です。あなたの喜び、あなたの幸せ感は、絶対に他人は創れません。人に頼っていたら無理なのです。あなただけが、あなたに与えられる。全てを誰かのせいにしていると、一生不満で不足で、文句を言い続けるだけになります。

光りのツブツブは、私たちの全身空間の1立方センチあたりに、1秒で、30億個が通過しています。この「光の波」をあなたの体に貫通させてください。そう意識して感じるだけで、そうなるのです。

あなたの全身に新たな光りを貫通させながら、それを充分に受け取ると、生きる喜び(真のエクスタシー)が無限に感じられて、これ以上ないくらいの至福を観じます。

死の概念から完全に抜け出て、「いつまでもどこまでも生きていい自由があるのだ」とあなたが喜ぶことによって、細胞へ光が充分に着床できます。光が着床すると、あなたの「今の時」がますます豊かに実るのです。実った喜びの波動が、さらに次の「時」を、そしてまた次の「時」を、というように、永遠に喜ばしい創造をしていくのです。

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意識を今に [願望実現]

人生でこれまで「まま子扱い」されてきた、「肉体」と呼ぶものに対して、あなたが好感を持ってほしいと思います。あなたの肉体ほど従順で忠実な召使はかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使いはかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使はほかにはいません。それなのに、まるで自分の肉体が自分のものでなかったらいいのに、というような態度が見られます。そして、ほとんどいつも自分の肉体に満足していません。若すぎるか年を取りすぎている、太り過ぎてるか痩せすぎている、背が高すぎるか低すぎる・・・いつも何か不満を持っています。肉体があなたから受け取る言葉は、「ありがとう。本当にありがとう。歩いたり、話したり、見たりできることに感謝しています」というものでは決してありません。いつも不平や非難です。肉体がいつも聞かされるのは、「まあ、これを見て、何てひどい。ダメねぇ」というものです。細胞は自分たちはダメなのだというメッセージを受け取りますが、間違っているのは、本当はあなたのほうなのです。

肉体は、なじみのない困難な状況のもとでも、あなたに気に入られようと努力します。けれども同時に肉体は、究極的にはあなたを喜ばすことは不可能なことを知っています。あなたの究極的な命令は、「年を取るな」というものだからです。

肉体は、自分は年老いた状態で完了するということを知っています。病気で体が動かず、衰えきっているという状態ではなく、生きる喜びに溢れて、ダイナミックで前向きの姿勢で年を取っているという状態です。「旅も終わりに近い。いい気分だ。うまくいっている。行くべきところにこれから行くのだ」ということです。

50歳なのに20歳にしか見えないとしたら、どこかが本当におかしいのです。そして、そう見られたいと思っているのなら、あなたは肉体の自然に反することを望んでいるわけです。そういう人は肉体に対して常に、「それではダメだ」というメッセージを送っています。そうすると、細胞はどんどん緊張していきます。この世で生き抜いていく不安を感じているあなたは、自分の頭は「ちゃんとやれる」だろうと感じているので、ますます思考に頼ろうとします。そこで頭は肉体がどう「感じて」いるかにはまったくお構いなく、肉体がどうすべきかを決定します。肉体は何かを創るために「考え」ませんが、頭は考えます。肉体はそれ自体の自然のリズムを持っていて、それが肉体をきちんと導いているのだということを、頭は「忘れて」しまうのです。


人は、ほかの召使いに対しては、親切で温かく感謝の気持ちを持って接するのに、最も身近な召使である肉体に対しては、そうした思いやりはまったく見せません。肉体に与えるメッセージの内容を変えると、肉体は緊張を解くようになるでしょう。リラックスして、本来のあるべき道筋を歩けるようにしてください。神は肉体の感覚を通して体験することができます。ですから、今日やるべきことは二つあります。

先ず第一に、あなたの意識が肉体のなかになく、体が感じていることを常に意識していなかったら、神を感じることはできません。

第二に、自分が存在することの不思議やすばらしさ、今この世にこうして自分がいることの完璧さや適切さを感じるのは、あなたの頭脳ではありません。それは肉体のすみずみにまで響き渡る感覚なのです。

あなたが今この空間尾なかにいることは、まさに「ふさわしい」のです。人それぞれが、大いなる全体性のなかで独自の位置を占めており、それぞれが自分の居場所の適切さを実感することが、人生に喜びをもたらします。自分のいる場所が、自分にとって適切なものだと感じると、人生の喜びやすばらしさや神秘を体験できるようになり、ほかの人間が何を言おうと、どうでもよくなります。

神の存在のパワーを感じたことがある人もいます。そういう人は、大きな悩みや不安や困難に直面しているときに、神の助けを求めたら、平安が突然心を包み、再び生きていく力が出てきて、するべきことができるようになったという経験をしています。自分のまわりにあるエネルギーが、前よりも強く振動しはじめて、それを感じることができるようになり、それがその人を支え励ましてくれるのです。

肉体は、あなたが空間と呼ぶエネルギー域のなかに一定の空間を切り開いています。こうして切り開かれた空間は、あなたのまわりで生き生きと息づいています。今日一日を過ごすなかで、自分が「無」と呼ぶものと、自分の肌がどこで接し、どこで「無」を通り抜けているのかを感じてみてください。

あなた方が「無」と呼ぶものは、私が「満たされたもの」と呼ぶものです。みなさんにとっては無と空間は同じものですが、私にとっては空間は満たされています。自分の肉体を、神秘に満ちた物質のなかを動いていくものとして感じるようにしてください。人が求めているものはすべて、まわりの空間のなかにあります。自分にとって最もふさわしい空間のなかに、自分はしっかりと守られて在るのだということに気づくと、あなたの「存在」はリラックスします。

このことに気づくため、床の上にある自分の足に意識を向けることをしてもらいます。では、立ち上がって、自分の全意識を足に向けてください。そしてゆっくりと静かに体を前後にゆすって、それから左右にゆすり、そしてまた、前後にゆすりましょう。体をゆすりながら、自分がゆすっている対象が何かあるのだ、ということを感じるようにしてください。片側に、そしてその反対側にも何かがあります。自分の足がしっかりと床についているのを感じることを忘れないでください。

歩いているときは、この物質のなかを自分が通り過ぎているのだというつもりで歩いてください。手を動かすときに、何かすばらしいものを押しやっているかのように感じてください。自分の息が、まわりの空気を優しくなでているのを感じてください。それは、実にいのちに溢れたものなので、そういうふうに感じてほしいのです。これが神の存在を感じる練習と呼ばれるものです。当然ながら、神の存在を感じる練習をするには、あなたの意識は今ここになければなりません。

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四次元の意識 [願望実現]


”神意識”と呼ばれる神秘に満ちた意識を、何とか理解したいと考えているでしょう。この意識が、目に見えるものでも自分で実感できるものでもないので、それを自分からかけ離れた遠いところにあるもの、時間や空間をも超えたところにあるものと考えているようです。そこで、あなた方はこのエネルギーと自分たちの惑星との関係について、こう質問します。

「”神なるもの”と呼ばれるエネルギーは、地球界にその存在を明らかにすることがあるのでしょうか。それは人間と直接、その場で目に見える形でかかわることができるのでしょうか」
その答えは「イエス」です。そうできるばかりか、現実にそうしています。そうした例の一つが、毎年12月にイエスまたはキリスト(救世主)を記念して、みなさんが祝うものです。「私たちがイエスのようになれるようにと、私たちを導くためにイエスが地球にやってきたのだということを、心から実感できるようにしてください」と人々は言います。「イエスのように」と言うのは、普通の意味ではなくて、自分が何なのかを明確に知り、”聖なる父”とは何なのかを明確に知り、自分と”父”との関係がどんな関係なのかを明確に知っているという、そういう目覚めた意識において、「イエスのように」ということです。人々は、イエスがしたように奇跡や不思議な行為をあとに残しながら、地球界での様々な体験をしていくことを強く願っています。

人間は、物事があまりに奇跡的に見えるのを好まないという傾向を持っているので、クリストス(キリスト意識)の人生の旅における奇跡の多くは失われています。キリストは最高の意味で魔術師でした。彼はその瞬間に存在するエネルギーをすべて取り入れ、自分自身のなかで変容させ、何か違うものとしてそれを世界に現すということができました。するとまわりの世界は、一瞬前とは違ったものになりました。これこそが本物の魔術師です。呪文を唱えたりすることはまったくなく、ただ絶対に揺らぐことのない目覚めた意識があるだけでした。そして、エネルギーを取り入れて、それまでなかったチャンスや希望、すばらしく高い波動を与えるものを世界に送り出したのです。そのためにイエスはやってきたのであり、それがイエスのしたことです。

キリストの到来とともに、ある贈り物がこの地球に与えられました。キリストの球形のパワーが、地球の時間と空間のなかをものすごいスピードで突進して、地球界のエネルギー域のなかに入ってきたときに、二つのことが起こりました。

まず最初に起こったことで非常に重要なのは、キリストは、「四次元」と私たちが呼ぶ世界とこの次元との間に通路を残し、以来この通路がふさがったことは決してありません。彼が通路を残したわけは、四次元の魔力や荘重さ神秘や美しさ、慈しみや喜び、叡智や静寂のすべてを、誰にでも体験してほしいと思ったからです。これが一つです。これだけでも大変なことです。

二番目の出来事は、クリストスの新しいエネルギーの渦がこの地球界に入ってくるときに、地球界自体のネエルギーを加速して、地球界をそれまでよりも高い波動周期へと移行させることができたということです。クリストスは自分の本質として生きることによって、ただそれだけでまわりのものすべてに変化の機会を与えました。クリストスのエネルギーがまわりの人間に向けられると、内なる深い希求を意識していた人たちは心の扉を広く開けたままにして、それを受け容れました。そうすると、あらゆるものを変化させる異次元からのパワーを感じ取ることができました。当時キリストの近くにいて得られたものは、現在でも得ることができます。そしてそれが得られるのは、静寂のなかにおいてです。



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現実を操るために [願望実現]

現実を操るためには、あなたは夢のなかで目を覚まし、真のリアリティの存在を思い出す必要がある。軌道上にいる宇宙飛行士たちはこの世のものとは思われない夢を見ている。ある宇宙飛行士は、公表された自身の日記のなかで、次のように書いている。「よくなにかの恐ろしい夢を見る。驚いたことに、動機や関連性が何もないのだ。きわめて複雑なコンピューターである脳が疲れて調子を狂わせたか、それとも外部から、つまり、あらゆることが書き込まれ永久保存されているこの世の情報フィールドから、情報が舞い込んだようだ」。通常の人間の意識の範囲では決して生まれるはずのないような夢を見た後では、この宇宙飛行士が可能性の空間の存在に関する公理を聞いても、驚きはしないだろう。

人間の知覚モデルは、カルロス・カスタネダやテウン・マレスの著作に上手く表現されている。そこには、アトランティス大陸からの最後の移住者であるとされるトルテック族の世界観が記されている。彼らの教えによると、人間はたくさんの繊維から成る光り輝くエネルギーの繭によって取り巻かれているという。すべての繊維は肩甲骨の辺りで集合点と名付けられたひとつの焦点に集まっている。この集合点の位置が近くの方向性を定める。

もしこのモデルを並行世界移動の概念と両立させると、集合点が正常な状態にある人は、通常のリアリティを知覚することになる。このような状態では、現実化されたリアリティは、可能性の空間にある然るべきセクターと合致している。もし集合点が脇へずれたら、同期化が乱れ、人は現実化されていない領域にあるセクターを知覚するかもしれない。普通の人々の場合、集合点の位置はしっかり固定されている。何らかの理由で固定されなくなると、集合点はぶれ始め、その人には霊能力が現れてくる。ところで、もちろん夢見もまさしくこの集合点の移動によるものなのである。この知覚の焦点が脇へずれたりしないことが肝心であるだけでなく、また、もしずれても元の位置に戻ることが大事なのだ。さもないと、異常な状態であり続けるかもしれず、精神錯乱と呼ばれる症状が起こってしまう。

意図的に自分の集合点を動かす能力を持っている人は、意識して見る夢(明晰夢)のように、リアリティを操ることができる。もしリアリティに対する支点を自分に取り戻す、すなわち自分が本当は誰なのかを認識すると、リアリティを操る能力はひとりでに現れてくる。しかし、本当の自分を認識することは簡単ではない。有名人のなかで悟りを開いた人は、指で数えるほどしかいない。悟りとは、初めは見知らぬ町の曲がりくねった狭い路地を当てもなくさまよい歩いた後に、空へさっとまいあがり、すべての地形を自分の手のひらのごとく俯瞰し、目的への道がすぐに明らかになることと似ている。

鳥が飛ぶ高さまであなたを持ち上げたりはしないが、たとえ目を閉じてでも進むことのできるルートをあなたに指示してくれる。夢の中で目を覚ますためには、原点が必要となる。もうひとつのリアリティ、つまり真のリアリティが存在することをあなたが思い出すと、今見ているのは夢なのだと理解する。原点となり得るのは、人生において、もし一段分が駄目なら、たとえ半段分でもよいから、意識性を高めることができるという知識だが、それはもう決して小さなことではない。

ほら、いつものようにあなたは通りを歩いているか、誰かとおしゃべりしているか、あるいはお決まりの仕事に携わっている。目を覚ますのだ!周囲を見回して、起こっていることを冷静に眺めよう。あなたは自分の意図によって自分の世界を必要な軌道に乗せる能力を持っている。あなたは自分のリアリティを操ることができる。しかし、それは夢の中での出来事とは似ていないだろう。あなたの意志のちょっとした動きにも反応して、筋書きが優美に変わっていくようにはならない。物質的現実化はタールが動くようにゆっくりと進むのだが、法則を利用すれば、それを制御することは可能だ。そして、まっさきに行うべきは、目を覚ますということなのだ。

どの人生でも、すべては神の夢見が、その視点となるということ。リアリティを夢として認識してみよう。意識してみる夢の場合のみ、あなたは状況をコントロールすることができる。あなたが覚醒状態のまま眠っていると、状況をコントロールしているのではなく、ペンジュラムと闘っていることになる。観客席に下りて行き、観察してみよう。自分をリースにだし(自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしないこと)、観察者のままで、少し距離を置いて行動しよう。

意識性のレベルを維持するためには、自分の思考の進む方向を常にコントロールすることが不可欠だ。これが習慣として身についたら、努力しなくても、自動的に行われることになる。なにしろ、あなたが自分の夢見のなかで目を覚ましたとき、これは夢に過ぎないという自分の自覚を維持する努力が必要なくなるのだ。これとまったく同様にして、覚醒しているときでも、思考の方向のコントロールのやり方を習得することができる。だが、そのためには習慣が根づくよう、最初のうちは「目を覚ます」ことを定期的に自分に強制する必要がある。

少し距離を置いて行動すべきだということを覚醒状態のときに思い出すようになると、あなたは自覚を持つ、すなわち、舞台から観客席へ下りて行くか、それともプレイする観客として舞台上に残ることになる。これこそが意識性の半段分であり、残りの法則を実行するにはそれで充分なのだ。残りの法則のうちで最も重要なのは、重要性のレベルを引き下げ、可能性の流れに従って進む、それに調整である。これらの法則は、人生で起こる状況の迷路のなかを、あらゆる不快なことを避けながら、目をつぶっても確信をもって進むことを可能にしてくれる。

もし可能性の空間のどこかに次の人生を始めるに当たっての支点があって、それに対しては今のこのリアリティを夢見とみなすことができるのであれば、その原点のそもそもの始まりは何なのだろうかと質問してみよう。どうやらそれは神自身のことなのであろう。それぞれの生き物の魂は神の一部である。また、どの人生もすべてが神の見る夢なのだ。さらに質問を続けることもできる。では、神自身には支点が存在するのだろうか、と。

この問題で頭を悩ますのは、希望が満ち溢れている人々におまかせしよう。次の質問もこれと似たような空しさを伴うかもしれない。目に見える宇宙の向こうには何かがあるのだろうか、という質問だ。私たちはこの答えを知ることはないだろう。それは、アフリカで花の蜜を集めている蝶たちが、アメリカにも花が咲いていることを知ることはないのと同じである。この世界は今のままでも十分に美しいとは言えないのだろうか?そんなことはない。なぜあらゆることへの説明をこの世界に求めるのか。手の届くところにある花の蜜をただ楽しむだけでよいのだ。

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覚醒レベル [願望実現]



創造物とは、それぞれの密度で形成されたさまざまな世界が一連につながったものである。あるいは、それぞれの周波数帯域で振動するさまざまな「次元」の現実が集まったものである。こうした全ての世界(次元)は、同じ「空間」を共有しており、静寂・不動の「空」そのものも同じ「空間」にある。

少なくとも、一つの言い方として、そういう言い方ができるということである。より正確に言えば、我々が創造物と呼んでいるものは、連続していて継ぎ目のないエネルギー場であり、「次元」とか「層」といった錯覚を認知しているのは、他でもなく観察者なのである。

例えば、人間の形態を持つ存在は、「可視光線」という周波数の範囲だけを見ている(観察している)。猫など多くの動物は、もっと広範囲の可視領域を持っているため、人間には見えないものが見える。それをもって猫は「異次元」を見ることができると言えなくもないが、実際には、同じエネルギー場でより多くのものを見ているだけのことである。このエネルギー場は、多くの密度(同じ空間を共有しているのであって、階層的に積み上がっているわけではない)から構成されており、その内のどの密度の範囲を解読するかによって「世界」の認識が創造される。その「世界」が存在しているのではなく、観察者によって、「世界」が存在しているかのような状態が創られているのである。

密度場は情報に過ぎず、我々が解読する密度が、我々にどんな情報が利用可能になるかのレベルを決定する。我々がアクセスできる周波数は高いほど、より多くの情報が利用可能になり、「覚醒」も容易になる。人類を操作する者たちは、我々が解読可能な周波数の範囲を狭くすることで、情報を限定し、覚醒を制限して、我々を無知なままにしたいと願っている。これこそが人間(の形態)を遺伝子的に工作する計画の主たる動機である。ごく単純化して言えば、静寂・不動の「あるもの全て」(根源)があり、その創造物として「密度」とか「次元」と言われる連続した周波数帯域がある。これらの密度は、波形の構造物(非物質)であり、多くの密度には、何らかの肉体のような「乗り物」を通じて解読され、表に現れるホログラムの「物質」レベルがある。これらは、いわば異なる「生物種」である。また、さまざまな「物質世界」は、さまざまな密度でもあり、我々がいるこの現実よりも、ずっと「固形」度が低い(密度が低い)ことがある。

「あるもの全て」のさまざまな側面が、こうした密度(世界)を経験することで、「あるもの全て」は自らを経験することができる。我々が知っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような密度の高い次元もある。私は、この我々の世界(我々が解読する範囲の周波数)の事を「第三密度」と呼んでいる。それと近接する世界で、別の共振に合わせて振動しているのが、「第四密度」と呼ばれる領域であり、「アストラル界」と呼ぶ人もいる。

大事なのはこうした名称ではなく、陰謀は、可視光線の範囲外(極めて近接しているが)の密度から画策され実施されていることである。我々が進歩して根源へと回帰するほど、密度の振動的な共振は増し、最後には静寂と不動の状態へと変容していく。そこで我々が「あるもの全て」を自覚する「故郷」に帰るのである。

この道理のことを「天国への階段」のようなものにたとえることができるだろう。つまり、自らの覚醒レベルを、有限から「あらゆる可能性」へ、自己への奉仕から全体への奉仕へと拡大することで、振動の階段を上っていくのだと捉えることもできる。自己から全体への拡大は非常に重要である。自らの覚醒を拡大していくと、自らを、錯覚である「部分」ではなく、全体と同一視するようになる。すると当然の成り行きとして、錯覚である個(自己への奉仕)から生じる利己ではなく、全体に役立つこと(他者への奉仕)へと関心は移っていく。第四密度というところは、依然として自己に奉仕するという状態がある世界の範囲内では、最も高度に進歩したところのようである。

世界の操作者たちは、その知的覚醒レベルを利用し、技術とエネルギー操作を通じて、その段階まで到達したわけであるが、それは彼らが他者への奉仕状態に移行するようになる前の段階として行き着くことができた限界でもある。実を言えば、彼らは自分たちの現実感覚、恐怖、支配欲(支配しなければならないという思い込み)に行き詰っており、それ以上、振動的に進歩したいという願望がない。ただ単に、絶えずつきまとう恐怖をやわらげるためだけに、より支配を強化したいと思っているのである。他の人間を支配したいという欲望、何かを支配したいという欲望は、全て恐怖と不安の現れであるが、彼らは恐怖と不安で疲れ切っている。だからこそ、支配することに夢中になっているのである。意識に目覚めた人は、他者を支配しようとは思わない。他者が自分自身であることを知っているからだ。

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現実を変える [願望実現]


才能ある霊能者や予知能力のある人々は、この非物質宇宙に接続し、まだホログラムに復号されていない設計図の段階で「出来事」を見ている。予知夢や予感を持った人々の話を調べると、未来の出来事を細部に至るまで正確に予知しているケースもあれば、夢で展開された出来事を見ることで行動を変えたため、起きることは起きたが、結果が変わってしまったケースもある。その一例として、ワシントン州の女性が、大きなシャンデリアが揺りかごの中の赤ちゃんに落下した夢を見た話がある。

夢の中で、彼女は夫とともに部屋の中で立ちすくみ、起きてしまった事を眺めていた。時計は4時35分を指していた。夢のシーンでは風が強く雨が降っていたが、驚いてパニックになって目覚めたときは、静かな夜だった。彼女は、赤ちゃんを揺りかごから取り出し、別の部屋で寝かせることにした。それから2時間ほどして、夫婦は大きな音で目覚めた。いつも赤ちゃんを寝かせていた部屋に急いで行ってみると、シャンデリアが揺りかごの上に落ちていた。時計は4時35分を指しており、外は風が強く雨が降っていた。

彼女が何をしたかというと、最終的にホログラムの現実として解読される前に夢で非物質宇宙の設計図にアクセスし、設計図を書き換えたのである。霊能者が読んでいるのは、決まってしまった「未来」ではなく、起こりそうな可能性のある「未来」である。ホログラムへの解読が近づいていればいるほど、実際に起きる可能性も高くなるが、それでも変えることはできるのだ。解読が終わるまでは、さまざまな「未来」(結末)の可能性があり、それは選択可能である。

非物質宇宙は、そのものずばりの予知、あるいは象徴的な予知の形で通信することができる。私は、ある夜、信じられないほど明瞭な夢が見たことがあり、象徴的に「未来」を見た。夢の中で私はベッドで寝ないで起きていて、誰かわからない人物がシーツの下の滑り込んできて、ベッドを蛇のような横揺れでガタガタと揺さぶった。それからひょっこりと私の隣に顔を出し、空の財布を振っていた。その2日後に、その人物が私に金を要求し始めた。

全てがどこから投影されているのかを理解することなくして、「この世界」を変えることはできないし、地球規模の陰謀を終わらせることもでいはしない。そして今にしてそれが分かった。波形の情報の設計図である。非物質宇宙である。

世の中の操作者は、実際には「物質」の世界を直接に操っているわけではなく、我々が「物質」の世界に解読する元の情報設計図を操っているのである。ロスチャイルドの地球規模の金融システム構造物は、非物質宇宙に築かれており、ホログラムとして上映されているに過ぎない。いったん非物質宇宙で設計図がセットされると、基本的にそのプログラムは、変更でもされない限り、実行され続ける。

オーウェル的な策略が見事な同期生とスピードで展開されているのは、何もかも同時実行するようにコンピュータに情報をプログラムしておきさえすれば、あとはエンター・キーを押すだけでよいのと同じである。我々が波形をホログラムに解読するとき、我々はエンター・キーも押しており、非物質宇宙における振動の可能性の「プール」の中から一つの結末を選び出しているのである。

我々を日々襲っている大衆心理操作、意識下の誘因や指示は、我々の無意識(非物質宇宙で動いている波形レベルの存在)をターゲットにしている。操作者は、非物質宇宙の波形構造物にあるあまたの可能性の中から、彼ら自身のプログラムを人間が選んでホログラムの現実に解読するように人間に自己認識・現実認識を植え付けようとしている。人間の解読システムを彼らのチャンネルにチューニングしているようなものである。操作者の陰謀集団は、このレベルでプログラムを書き(書き換え)、それがホログラムの現実となって展開されているわけだが、そのためには人類をマインドに閉じ込め、意識から切り離しておく必要がある。

このことを知れば、地球社会が築かれ操られてきた歴史に完全に合理的な意味があることが分かり始めるだろう。彼らは、波形の振動領域との交流を基本とする生贄などの儀式により、非物質宇宙をプログラムし、操っている。こうした仕組みを全て理解し、意識に目覚めたマインドであれば、もはや単なる予測屋や経験者に甘んじていることはなく、意識下に働きかけ、個人レベルでも集合レベルでも、非物質宇宙の設計図の変更に着手することができる。そうすれば、経験・認知の物質レベルも変えることができる。

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現実化のパワー [願望実現]


自分の選択したものが現実化するのを助けてくれるパワーが、幾何学的完璧性の次元から送られてきます。この方法には危険なものが隠されています。人がこのパワーを意識的に使い始めるときに、地球界やあなたに襲い掛かってくるような、「怪物」を創造しないという保証があるのでしょうか。この点を説明するために、創造の世界で何が実際に起こるのかという基本的な例を示しましょう。

例として、あなた方が最大の悪人とみなしている、アドルフ・ヒトラーを使いましょう。ヒトラーは、当時重くのしかかっていた社会的経済的問題から自国の人々を解放したい、というヴィジョンから出発しました。ヒトラーが自分の目標を心に描くと、幾何学的完璧性の次元で、それが一つの形となって生まれました。

彼の望みはとてつもなく巨大だったので、それを育てて行くには、実に大量のパワーが必要でした。その形をヒトラーと共に満たす人が何万人何十万人といなければ、とてもヒトラーの夢をあれほどの規模で現実化し、それほどの人々や国々に影響を与えることはできなかったでしょう。アドルフ・ヒトラー一人で世界を支配しようとしても、必ず失敗していたでしょう。彼一人には、あれほどのスケールの大きな夢を実現する力はとてもありませんでした。彼の夢を知って、その実現を望んだ多くの人々が、その夢に力を貸して大きく育て上げなければ、それは不可能でした。ヒトラーが自分の夢を創造していく過程の途中で、人々は「いや、私はこんなのはごめんだ」と言うことは、いつでもできたのです。でも人々はそうしませんでした。

このことは、あなたとどう関係があるのでしょうか。誠意にもとづいて、人のためになると思うものを創造するときに、それがまわりの人のためにならないものなら、やがて自分にもまわりの人にも、それがわかってくると思います。心を開いて愛の境地から創造するときと、復讐や怒りや分離意識から創造するときとでは、やはり気分も感覚も違います。ですから、自分の人生のなかで行動を選択し、それを創造する時には、よく考えてからにしてください。自分の望むことが、すべての人にとって良い結果をもたらさないかもしれないと思うときには、最善の結果をもたらさないのなら実現しなくてもいいということを、宇宙に意思表示するのです。これは安心して使える防衛策です。自分を信頼してください。

ヒトラーは自分の行動によって、精神の高揚を感じたと本当に思いますか。それとも彼は、何かに追い立てられるように、やみくもにそうしたのでしょうか。何かに追い立てられる気持ちと、精神の高揚と無欠性を感じることとの違いを、あなたは知っているはずです。これからもっと学んでいくにつれて、この方法を信頼することができるようになります。自分の人生によいものや真実のものや美しいものを創造する方法は、すでに知っていますね。この方法が上手く作用しているのが分かり、それを実感するにしたがって、次第に自信がついてくるでしょう。

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目覚めた意識 [願望実現]

地球の多くの人たちは、とにかくその日一日を生きるのに精いっぱいで、ただ意識が絶えないように食べ物を探すことのためだけに、信じられないほどの苦労をしています。私たちはそのような人生を送ってはいません。悩みのほとんどは、地球の大多数の人の悩みと比べると、それほど深刻ではありません。だからといって、そのことで後ろめたさを感じる必要はありません。そういう状況にあるということは、感謝をするだけの理由があるということです。そして、自分はなぜこうした機会を与えられたのか、それに対する自分の責任は何なのかと、自分に問う必要があるということです。光と純粋な意識の世界に、できるだけ深く入ってください。あなたがそうすることによって、地球全体がその恩恵を受けます。はっきり言いましょう。地球の人々は、あなたの助けを必要としています。 目覚めた意識を持ち、自分の光を見つけ、自分の愛を見つけ、自分の悟りを見つけ、自分が何なのかを見つけてください。あなたはそうするのに最も適した環境にいます。自分のためにはそうすることができないというのでしたら、ほかの人のためにそうしてください。みんな、あなたの助けを必要としています。テレビのニュースをちょっとでも見れば、意味がわかることでしょう。後ろめたさを感じたりして、ムダなエネルギーを使わないでください。その代りに、「ありがとう。これを使って、この地球にできるだけ多くの愛と光と思いやりと理解をもたらす努力をします」と言ってっください。目覚めつつある人にとっては、それがなすべきことです。そのほかのことはすべて、それほど重要ではありません。 神のおかげとその人自身の努力の結果、真の理解に達しかけている人や、自分が何なのかを本当に理解する一歩手前に来ている人がいます。そこで立ち止まらないでください。日常生活のゴタゴタに埋もれてしまわないでください。つまらない問題に巻き込まれないでください。大事なことは、自分の喜びと愛と光を増し、歓喜に躍動することです。それが、自分のやるべきことなのだという点を、忘れないようにしてください。あなたがこの地球で生きていくなかで、自分の生活に喜びをもたらせばもたらすほど、そんなことが可能だということさえ知らない人々を助けることになります。 ただの一瞬たりとも罪の意識を感じたりしないでください。まったくの時間の無駄です。それはエゴのささやきです。自分がここにいるのは、地球界で愛するために、あなた自身の本質である愛を体験するために存在しているのだ、ということを思い出してもらうためです。あなたがここにいるのは、自分のなかやまわりで純粋な目覚めた意識の光を爆発させるためです。あなたがここにいるのは、すべての悩みや苦しみは幻影であると知るためであり、あなたがそれを知ることによって、何百万何千万という人々を助けることになります。ですから、人びとを助けたいと思うのなら、自分自身の光を見つけ、自分自身を見つけ、自分の神を見つけてください。そして、自由に大きく羽ばたいてください。

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選択・意志と現実化 [願望実現]

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ゼロポイント・・・・例えば、あなたが本を読もうと決めた瞬間、それは「選択」されたわけですから、ちゃんと読むという現実になります。現実化とは、「選択(決意)」することだからです。でも、読もうと決める「コンマ何秒か前」の瞬間には、本を読む可能性(本を観察する可能性)と、読まない可能性(観察しない可能性)との両方の現実が「重ね合わせ」の状態で、同時にゼロポイントに存在していたわけです。共存していたのです。

あなたが想像しうる「全ての現実(状況)」は、宇宙のゼロポイントに、意識エネルギーとして重ねあわせで共存しています。ゼロポイントに存在しない現実は、夢見ることや妄想することさえ不可能なのです。考えつく、思いつく、イメージできるということは、ゼロポイントにあるからです。常識で凝り固まった頭が否定するような、どんな突拍子もない考え方でさえも、現実化して観察するためにゼロポイントに「ただ、ある」のです。

ですから、あなたの肉体を、「この人生において必ず死なせる」という現実と、あるいは「無限に生かし続ける」という現実、このどちらの現実体験も重ねあわせでゼロポイントにあるわけです。あらゆる選択肢が平等に、ゼロポイントに「ただ、ある」のです。肉体の生と死も、常に今この瞬間に重ね合わせ状態になっていますが、あなたが何かを選択し、決意した瞬間、その共存状態がバランスを崩して、どれか一つに決まってしまう。

もし、あなたが無限のいのちの肉体を「選択」しない場合、その現実の可能性は、ゼロポイントに重ねあわせで積み重なったまま、いっさい観察されない。私たちが「観察する」という意識がなければ、その現実は起こらないのです。つまり、「選択」して決意しなければ、不老不死の肉体は実際には創られないし、私たちがそれを体験することはできなくなる。ゆりかごから墓場までといったような「直線的な流れ」が時間の本質ではないから、全ての現実の時が「点」として、ゼロポイントに折りたたまれて今ここに存在しています。

私たちの意識の本質は、知らないことに興味を持ったり、疑問を持ったり、まだ体験していない物事を実体験したがります。常識に従って生きるだけでは、その本質的な欲求を満たしてあげることができず、結果としてあまりワクワクしませんし、つまらない気分になり、生きることにうんざりする日々になってしまいます。自らの自立した意志で、誰の価値観にも左右されず、いかなるプログラムにも左右されず、常識にも固定されず、純粋に自由に選択して決めることがとても大切です。

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意図の力 [願望実現]

おそらくあなたは永遠の命をもたらす聖杯という言葉を聞いたことがあるだろう。それを求めてたくさんの人々が探し回った。ナチス・ドイツも含まれる。無限の力と権力を得られるというような伝説はいつの時代にも語られる。浅はかな思い違いだ。どんなものも力を与えてはくれない。呪物、呪文、その他魔術に使う道具などは、それ自体としてはどんな力も持っていない。意図の力は、そうしたものの属性を用いる人々に備わっている。この属性は、発育が遅れてまどろんでいる意図の退化器官にスイッチを入れるよう潜在意識をある程度手助けするだけなのだ。属性の持つ魔力を信じることで、意図を目覚めさせるための刺激が与えられる。

古代文明は、魔術のための儀式を行わなくてもよいほどの完成域に達していた。当然のことながら、その威力は強力な過剰圧力を産みだした。そのため、外的意図の秘密を発見したとされるアトランティスのような文明は、平衡力によって滅亡の危機に瀕することが度々あった。そこに秘められた知識の断片は、失ったものを再生するための魔術の実践方法として私たちの時代にまで引き継がれた。しかしながら、それは、内的意図の誤ったルートを通して行われる拙劣で上っ面を撫でるだけの試みに過ぎない。力と偉大さの本質である外的意図は、依然として謎のままである。人間の内的意図が優先的に発達し、外的意図が失われたのは、振り子による誘導である。なぜならば、振り子は内的意図のエネルギーを摂取しようとするからだ。外的意図をコントロールすることは、振り子から完全に自由な状態を手に入れて初めて可能になる。この点で振り子は、人間との闘いにおける最終的な勝利を収めたといえる。

目的の達成に向けられた思考エネルギーは、願望、内的意図、外的意図の三つの形態で現れる。願望とは、目的そのものに注意を集中することだ。願望は何の力も持っていない。目的についてどれだけ思おうが、目的をどれほど望もうが、何も変わらない。内的意図とは、目的へと向かう自分の進む過程に注意を集中することだ。これは作用するのだが、多大な労力を要求する。外的意図とは、目的そのものが現実化する様子に注意を集中することだ。外的意図とは、目的がひとりでに現実化することをただ単に容認する。この際、目的の現実化の可能性はすでに存在し、それを選択するだけだという揺るぎない確信があることは言うまでもない。目的は、内的意図によって達成へと向かわされ、外的意図によってその選択が現実化される。

内的意図は、「私が要求したいことは、・・・」という常套句で特徴づけられる。外的意図は 「状況は・・・になる」または「結局・・・になってしまう」というように、まったく別の規則に従っている。前者の場合、あなたは世界が服従するよう、積極的に世界に影響を及ぼす。後者の場合、あなたは傍観者という立場を取り、あたかもすべてが自然にそうなるように、結局あなたの意志の通りになる。変えるのではなく、選ぶのだ。夢の中での飛行は、まさに「私は飛ぶことになってしまった」という表現がふさわしく、「私は飛ぶことを要求する」「私は飛びたい」というものではない。

内的意図は、まっしぐらにがむしゃらに目的に向かう。一方、外的意図は、目的がひとりでに現実化するプロセスに向けられる。外的意図は、目的を達成しようと焦ったりしない。目的はポケットの中に入っているのだから。目的が達成されるであろうことは、ほとんど疑問の余地がないので、議論してみるまでもないことだ。外的意図は、目的の現実化を、不動のもの、不可避のものとして、容赦なく冷静沈着に押し進める。

作用しているのがあなたの内的意図なのか、それとも外的意図なのかを見極めるには、たとえば、次のような疑問文を利用していただきたい。この世界から何かを獲得しようとしているのか、この世界自らがあなたの欲しいものを与えてくれるのか?陽の当たる場所を求めて闘っているのか、世界があなたを抱擁しようとして手を差し伸べてくるのか?閉ざされた扉に押し入ろうとしているのか、扉があなたの前でひとりでに開くのか?壁に穴を開けようとしているのか、壁があなたの目の前で崩れ落ちて道を開けてくれるのか?あなたの人生において何らかのことがらを呼び起こそうとしているのか、何らかのことがらがひとりでにやってくるのか?一般的に言うと、内的意図によってあなたは可能性の空間に対する自分の現実化の位置を移動させようとするのに対し、外的意図は、あなたの現実化が必要なところに位置するよう、可能性の空間そのものを移動させる。結果は同じだが、達成への道筋は大きく異なるのだ。

もしあなたの行動が、先に紹介した疑問文の後半部分で表すことができるならば、あなたは外的意図をつかまえたことになる。あなたが闘うときは、可能性の空間での自分の現実化を推し進めるよう努力する。あなたが選択を行うときは、可能性の空間は自分からあなたの方へとやってくる。もちろん、可能性の空間の方からあなたの現実化に対する位置を自然に動かしてくれるようなことはない。そうなるためには、あなたは一定の行動を取らなければならないのだ。ところが、この行動は、一般的に受け容れられている聞きなれた考え方の枠外にある。外的意図と内的意図とで、どのようにアプローチが違うのか例で示してみよう。外的意図は礎石ともいうべきものだ。そこには監視員の謎を解く鍵、すなわち、なぜこの世界と闘う必要がなく欲しいものをこの世界でただ選択するだけなのかという理由が隠されている。

外的意図にとって不可能なことは何もない。もしあなたにキリストが持っていたような外的意図があれば、現実の世界でも空を飛ぶことができるし、水の上を歩くこともできる。この場合、消して物理法則に違反するわけではない。なぜなら、物理法則が働くのは、個々に選択され、物質的に現実化された同じセクター内だけだからだ。ところが外的意図の働きは、可能性の空間の様々なセクターを経由する現実化の動きの中でのみ現れる。したがって、現実化されたひとつのセクター内で空を飛ぶことは不可能なのだ。可能とするためには地球の引力に対抗する必要があるが、それは内的意図の仕事であり、重力を克服するためにエネルギー消費が求められる。自由飛行は、夢の中であっても、現実生活であっても、物質空間におけるリアルな運動ではなく、あなたの現実化の相対的状況の変化なのだ。言い換えると、肉体が物理空間において次々に新しい位置で物質化されていくことである。

もうひとつ付け加えると、あなた自身が空間を飛ぶのではなく、あなたの外的意図の選択に従って、空間があなたと相対的に動くのである。おそらくこの説明でもそれほど正しいようには聞こえないかもしれないが、ここで私は相対性理論に深く立ち入るつもりはない。私たちにできることは、これが本当はどのようにして起こるのかを推量することだけである。

飛行するためには、その可能性を絶対に信じることが必要だ。なぜキリストは「あなたがたの信じている通りになるように」ときっぱり言ったのか?なぜなら、意図を持たずに、何かを受け取ったり行ったりすることはできないからだ。信念のない意図はない。歩くことが可能であると信じることなしには、一歩も前へ進めない。しかしながら、現実生活で、夢の中と同じように、飛ぶことができることを理性に納得させることはうまくいかない。いずれにせよ、意識が普通の状態であればそれは無理だ。インドのヨガ行者の一部では、瞑想中に床から浮き上がるという。彼らの意図は、身体が宙に浮かぶ可能性の動きに同調するのに十分であるのかもしれない。一般の人々に比べ、ヨガ行者たちの方にはたいへん大きな可能性があることに注目すると、外的意図を意志に従属させることの難しさが想像できるだろう。

夢の中であれば、まどろんでいる理性は空を飛ぶ可能性を容認することもあろうが、意識がはっきりしている理性にとっては、どんなに説得されようと、空を飛ぶことは理解したがいことなのだ。信念だけでなく、知識もなくてはならない。信念というものは、疑念のつけ入る隙を示唆している。信念のあるところ、疑念の余地あり。知識は疑念を排除する。あなたが放り投げたリンゴが地面に落ちるのを怪しんだりはしないのと同じことだ。あなたはこれを信じているのではなく、ただ知っているのだ。純粋な外的意図は、疑念による曇りがない。これはすなわち、信念からも解放された状態にあるということになる。夢の中であれば、飛行するためには外的意図をほのめかすだけで十分であるのに、慣性が働く物質的現実化の世界にあっては、意図は絶対的に純粋なものでなければならない。しかし、純粋な意図を持つことができなくても、落胆してはいけない。あなたの目的を現実化させるためには、「二級品」の意図でも十分役に立つことだろう。ただし、慣性が働く現実化が実行に移されるためには、一定の時間を要することになる。



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