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引き寄せという収縮 [願望実現]

肉眼で見えるこの現実世界を成り立たせているのは、見えない内側なのです。見えない内側の表れが外側のカタチとなって現実化します。内なるものが外へカタチをとるだけです。内なる心のありよう、愛のありようが、自動的に外へ具体的な結実となるのです。そして、この結実なくして、何かを受け取ることなど不可能です。 完全なる万物一体愛の神意識に至る以前に、愛の進化には4段階があります。 1・愛がほしいだけ 2・ギブ&テイクという損得をもとにした愛の取引(かけひき計算) 3・愛をただ発動して与えることしか思っていない。 4・与えるとか、受け取るとか、そういう区別さえどうでもよくなっている。ただ愛の状態にある。 1は、まだ完全に動物意識。2は、動物意識の頂点である人間意識。3からは神意識。 虚空から生まれる命の動きには二つの働きが備わっており、遠心力と求心力の双方向システムになっています。愛の方向が二つで一対です。A:中心から外へ拡大(発展繁栄・神化)しようとする愛 B:中心へ収縮しようとする愛 Aは創造結実に向かっていくエネルギーなのです。愛の遠心力です。発展・繁栄を欲求する愛の動きです。積極的な側面です。「愛を与えよう」という意志です。Bは受け身的で控えめな側面の愛です。消極的な側面です。受容性です。「愛を与えられよう」という受け取る側面です。 愛を感じると、自動的にいやでも拡大するのです。愛だけが拡大増殖のエネルギーだからです。ただ、愛という肉眼で見えないものが、拡大だけの方向性しかなかったなら、どこまでいっても見えるカタチでの結実が起こりません。どこかで動きが止まってくれるからこそ、結実(現実化)起こるのです。 動きが止まってくれるのは、愛の源泉へ戻ろうという、収縮しようとする働きによってです。愛の拡大が止まってくれて、結実になったあとは、ありがたいことに自動的に源泉である中心の方へ戻るのです。中心へと引き寄せられていくのです。これもまた「収縮しようとする働き」のおかげです。 多くの人が引き寄せという収縮の方向(収縮の動き)を主に願っていますが、真っ先に愛の放出や拡大がないのに、当然そこからの結実もないのに、一体何を引き寄せるというのでしょうか?しかも引き寄せのエネルギーは、収縮と破壊のエネルギーですから、引き寄せだけを願っていると、創造の愛が崩壊することしか起こりません。愛と至福の心の種子を自ら、蒔いてもいないのに、回収することなどできるはずがないのです。

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理性の疑念と目的の歪み [願望実現]

あなたはすでにイメージの法則を使いこなせると仮定しよう。だが、時間が経つのに、何も起こらない。手紙を出したはいいが、返事は一向に来ないようなものだ。理性は落ち着きなく寝返りを打ち始める。我慢できないのだ。ひょっとしたら間違ったことをしでかしたのだろうか。それとも、すべてはたわ言だったということか。実は、世界はひとところに留まっておらず、鏡に映し出される姿の物質化プロセスが進んでいる。ただこのプロセスは目立たないため、何も起こらないように思われるのだ。こんな時、理性は、鏡が遅れて反応するという知識と、直接的行動の後ですぐに結果が現れる相関性を見ようとする慣れ親しんだ習慣との間で、揺れ動く。もし結果が見えなければ、理性は何を思うだろうか。思考上の仕事が非効率であったか、それとも、正しいやり方ではなかったか、と思う。では、そのような場合、鏡は何を映し出すだろうか。まったく同じことを、だ。こうしてプロセスは停滞するか、またはあらぬ方向へと逸れていく。理性と世界との間では、おおよそ次のような対話が予想できる。

「おもちゃが欲しいよ」「もちろんです、小鳩ちゃん、知っていますとも」「だって、約束したじゃないか」「そうですよ。あなたが頼んだから、私はおもちゃが手に入るだろうと言ったんです。察するに、おもちゃが手に入るだろうと言ったことで、あなたは十分満足した様子でしたね」「違うったら。僕はおもちゃが今この瞬間に欲しいんだってば」「ええ、わかっていますとも。あなたは今おもちゃが欲しいんでしょ」「じゃあ、いったいどこにおもちゃがあるんだい」「本当に、どこでしょう」「どちらかがバカだということかい」「確かに」「コンチクウショー。お前はただの間抜けな鏡だってことを忘れていた。ええと、どうやって頼むんだっけ?あ、そうだ、思い出した。お前は私におもちゃをくれる、だ」「承知しましたよ、私の大切な人」「といことは、僕はおもちゃをもらいに出発するところ、だよね?」「もちろんですよ、愛しい人、さあ私の手を取って」

こうして、二人は欲しいと思っているおもちゃを求めての旅に出発するところである。あとは忍耐心を持ち、自分の時間を心躍る準備作業に捧げるだけとなる。魂はうきうきし、理性は満足そうに揉み手をする。満足しないなんてことがあろうか。なにしろ世界と一緒におもちゃを求めて進んでいるところなのだ。次のことを理解するべきだ。行われた選択は、必ず実現されることになる揺るぎない法則に変わる、ということを。そのために必要なのは、注意を最終目的に固定しておくことだけなのだ。ところが、人はいつまでもそうしてはいられないものだ。「ねえ、僕たちはあそこへ向かって進んでいるんだよね?何だかおもちゃ屋は見えてこないようだけど」「心配ご無用、私の大切な人、もうすぐですから」「それはいつなの?入口が違ったような気もするけれど」「そう思いますか?」「ああ、やっぱり道に迷っちゃった」「あなたの言うとおりにしていますよ、小鳩ちゃん、知っているでしょ、私がいつも同意することを」「鏡のバカ。よくわかったよ、お前はまったく頼りにならないヤツだ。どこへ連れてきたんだよ?」「ただ途中で公園に寄りたかっただけですよ、ついでにメリーゴーランドで遊んでもらおうと思って」

もし人が目隠しされたまま歩かされると、頼りなく感じる。人の理性は、何も起こらない状況や、あるいは、ものごとが思ったとおりに展開しない状況とは、どうしても折り合いをつけることができない。理性は人工頭脳を持ったロボットに似ている。もし処理作業の演算規則に反することが生じると、赤いランプが点灯するのだ。理性が人工頭脳と違うのは、理性自体がすべての展開を事前に見通すことができると無邪気に思い込んだ上でプログラム--シナリオ--を作り上げる点にある。理性は固定観念に染まった行動プログラムを示すだけでなく、それに固執するというところに、所謂、良識と呼ばれる物の考え方の原始性がある。

選択が行われた、すなわち最終的な目的=イメージが選択されたその瞬間、世界の鏡は注文を受け取り、定められた計画に従って中門の実現に着手する。どのような手段でイメージの反映が創られるかを知っているのは鏡だけであり、理性はこの道筋についてはあずかり知らない。ところが、事象が何らかの奇妙なシナリオによって展開しているのを目にした理性は警告を発し始め、その人は世界の胸座を取る。何か手を打たなければ、というわけである。心の底で本人はどうせ何にもならないだろうと思い、そう思うことで形は歪む。それに加えて、自分のシナリオを擁護する行動に出るので、本人には知らされていないが、本当に成功へと導いてくれるはずの計画の実現は邪魔されるばかりとなる。理性は頑迷固陋なのである。こうして人は、目的まで通じているはずと思われる自分のシナリオをぎゅっと握りしめて放そうとせず、目的が実現することを自分で許さないのだ。しかし、これですべてではない。早くおもちゃをもらいたいという自分の抑えのきかない願望によって、人は過剰ポテンシャルを急激に高めるため、鏡は文字通り歪んでしまう。歪んだ鏡から何を期待できようか。



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思考の制約を外す [願望実現]


今までの私たちの歴史は、「感情を体験して学ぶ時代」でしかたら、私たちは実にたくさんの感情と人生ドラマを創ってきました。そのドラマの主人公のキャラクターになりきって演じてきました。感情ドラマを体験するために、わざわざ辛い感情を創る必要があり、そして、その感情毒素を癒すという必要性もあったのです。

ただ、今まではそうでしたが、これからは、永遠に続く真のエクスタシー(生きる喜び)を体感して学ぶ時代に入ります。いちいち辛い感情を創っては癒すという必要がなくなったのです。過去の私たちは、価値観を二極化させて、不自然で苦しい感情を学ぶための、「体験の場を開く」ことは得意でしたが、「体験の場を完了して閉じる」という方法を、完全に忘れてしまったのです。どうぞ思い出していただきたいのですが、ただ単に、「あらゆる感情の全てがOKだ」と認めて受け容れるだけで、「苦しい体験場」は閉じます。

あなたが、二極化した価値観を等しくバランスさせて、全面的に生きる喜びになってしまうと、全ての感情の傷が一気に癒されてしまうからです。そういう時代が、もう、目の前です。地球に降り注ぐ光のツブツブの量が、ものすごく変化してきているのです。光そのものが持っている生きる喜び(真のエクスタシー)がパワフルになってきているのです。ですから、この新しい光の波の質に乗り遅れないようにしてください。光の波の質は、喜びでもあり、大いなる豊かな愛でもあり、私たちはこの光の波が不足する時に、強い飢餓感を覚えるのです。そして、お金、食べ物、SEX、ギャンブル、知名度、名誉などを激しく欲する心になります。

そして、いろいろな思考を使っていると、新しい光の波に間に合いません。今までのように、ジャッジしたり、批評したり、理屈を言ったり、あるいは、悩んだり、葛藤したり、疑っていると、新しい光の波に乗れません。

つまり、新しい「今ここ」という時を創ってくれる、光の波や光のツブツブを受け取れないということになります。新しい光を受け取れないわけですから、当然ながら新しい体(進化した体)になれないし、新しい脳(進化した脳)になれないし、新しい血液や新しい自分自身が創られない。

思考、理屈、判断、分析などは、「限定された特定の周波数」ですから、決まりきった現実しか創れません。世間が当たり前だと思っている常識の範囲でしか、現実が起こりません。自分で勝手に思い込んでしまった「無理」「不可能」「だって、できない」などの思考の制約を外してください。

判断や分析のエネルギーは、私たちを無条件の愛や喜びにアクセスすることを制限するようなエネルギーなのです。ですから、エネルギーの種類を見極めるための「識別力」を持つ必要があります。混同していただきたくないのは、「識別すること」は、「判断すること」とは違うものだという点です。

どのような質のエネルギーなのかを見極めるという意味の「識別力」は、中立で公平な力であり、自由になるためのツールですが、「判断すること」は不公平なツールなのです。

是非とも、自由でイキイキとした気持ちをあなたから奪うような判断理論やプログラムを中立に「識別」し、分別して、喜ばしくないものは捨て去るようにしてください。「識別」はあなた次第です。あなたの喜び、あなたの幸せ感は、絶対に他人は創れません。人に頼っていたら無理なのです。あなただけが、あなたに与えられる。全てを誰かのせいにしていると、一生不満で不足で、文句を言い続けるだけになります。

光りのツブツブは、私たちの全身空間の1立方センチあたりに、1秒で、30億個が通過しています。この「光の波」をあなたの体に貫通させてください。そう意識して感じるだけで、そうなるのです。

あなたの全身に新たな光りを貫通させながら、それを充分に受け取ると、生きる喜び(真のエクスタシー)が無限に感じられて、これ以上ないくらいの至福を観じます。

死の概念から完全に抜け出て、「いつまでもどこまでも生きていい自由があるのだ」とあなたが喜ぶことによって、細胞へ光が充分に着床できます。光が着床すると、あなたの「今の時」がますます豊かに実るのです。実った喜びの波動が、さらに次の「時」を、そしてまた次の「時」を、というように、永遠に喜ばしい創造をしていくのです。

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意識を今に [願望実現]

人生でこれまで「まま子扱い」されてきた、「肉体」と呼ぶものに対して、あなたが好感を持ってほしいと思います。あなたの肉体ほど従順で忠実な召使はかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使いはかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使はほかにはいません。それなのに、まるで自分の肉体が自分のものでなかったらいいのに、というような態度が見られます。そして、ほとんどいつも自分の肉体に満足していません。若すぎるか年を取りすぎている、太り過ぎてるか痩せすぎている、背が高すぎるか低すぎる・・・いつも何か不満を持っています。肉体があなたから受け取る言葉は、「ありがとう。本当にありがとう。歩いたり、話したり、見たりできることに感謝しています」というものでは決してありません。いつも不平や非難です。肉体がいつも聞かされるのは、「まあ、これを見て、何てひどい。ダメねぇ」というものです。細胞は自分たちはダメなのだというメッセージを受け取りますが、間違っているのは、本当はあなたのほうなのです。

肉体は、なじみのない困難な状況のもとでも、あなたに気に入られようと努力します。けれども同時に肉体は、究極的にはあなたを喜ばすことは不可能なことを知っています。あなたの究極的な命令は、「年を取るな」というものだからです。

肉体は、自分は年老いた状態で完了するということを知っています。病気で体が動かず、衰えきっているという状態ではなく、生きる喜びに溢れて、ダイナミックで前向きの姿勢で年を取っているという状態です。「旅も終わりに近い。いい気分だ。うまくいっている。行くべきところにこれから行くのだ」ということです。

50歳なのに20歳にしか見えないとしたら、どこかが本当におかしいのです。そして、そう見られたいと思っているのなら、あなたは肉体の自然に反することを望んでいるわけです。そういう人は肉体に対して常に、「それではダメだ」というメッセージを送っています。そうすると、細胞はどんどん緊張していきます。この世で生き抜いていく不安を感じているあなたは、自分の頭は「ちゃんとやれる」だろうと感じているので、ますます思考に頼ろうとします。そこで頭は肉体がどう「感じて」いるかにはまったくお構いなく、肉体がどうすべきかを決定します。肉体は何かを創るために「考え」ませんが、頭は考えます。肉体はそれ自体の自然のリズムを持っていて、それが肉体をきちんと導いているのだということを、頭は「忘れて」しまうのです。


人は、ほかの召使いに対しては、親切で温かく感謝の気持ちを持って接するのに、最も身近な召使である肉体に対しては、そうした思いやりはまったく見せません。肉体に与えるメッセージの内容を変えると、肉体は緊張を解くようになるでしょう。リラックスして、本来のあるべき道筋を歩けるようにしてください。神は肉体の感覚を通して体験することができます。ですから、今日やるべきことは二つあります。

先ず第一に、あなたの意識が肉体のなかになく、体が感じていることを常に意識していなかったら、神を感じることはできません。

第二に、自分が存在することの不思議やすばらしさ、今この世にこうして自分がいることの完璧さや適切さを感じるのは、あなたの頭脳ではありません。それは肉体のすみずみにまで響き渡る感覚なのです。

あなたが今この空間尾なかにいることは、まさに「ふさわしい」のです。人それぞれが、大いなる全体性のなかで独自の位置を占めており、それぞれが自分の居場所の適切さを実感することが、人生に喜びをもたらします。自分のいる場所が、自分にとって適切なものだと感じると、人生の喜びやすばらしさや神秘を体験できるようになり、ほかの人間が何を言おうと、どうでもよくなります。

神の存在のパワーを感じたことがある人もいます。そういう人は、大きな悩みや不安や困難に直面しているときに、神の助けを求めたら、平安が突然心を包み、再び生きていく力が出てきて、するべきことができるようになったという経験をしています。自分のまわりにあるエネルギーが、前よりも強く振動しはじめて、それを感じることができるようになり、それがその人を支え励ましてくれるのです。

肉体は、あなたが空間と呼ぶエネルギー域のなかに一定の空間を切り開いています。こうして切り開かれた空間は、あなたのまわりで生き生きと息づいています。今日一日を過ごすなかで、自分が「無」と呼ぶものと、自分の肌がどこで接し、どこで「無」を通り抜けているのかを感じてみてください。

あなた方が「無」と呼ぶものは、私が「満たされたもの」と呼ぶものです。みなさんにとっては無と空間は同じものですが、私にとっては空間は満たされています。自分の肉体を、神秘に満ちた物質のなかを動いていくものとして感じるようにしてください。人が求めているものはすべて、まわりの空間のなかにあります。自分にとって最もふさわしい空間のなかに、自分はしっかりと守られて在るのだということに気づくと、あなたの「存在」はリラックスします。

このことに気づくため、床の上にある自分の足に意識を向けることをしてもらいます。では、立ち上がって、自分の全意識を足に向けてください。そしてゆっくりと静かに体を前後にゆすって、それから左右にゆすり、そしてまた、前後にゆすりましょう。体をゆすりながら、自分がゆすっている対象が何かあるのだ、ということを感じるようにしてください。片側に、そしてその反対側にも何かがあります。自分の足がしっかりと床についているのを感じることを忘れないでください。

歩いているときは、この物質のなかを自分が通り過ぎているのだというつもりで歩いてください。手を動かすときに、何かすばらしいものを押しやっているかのように感じてください。自分の息が、まわりの空気を優しくなでているのを感じてください。それは、実にいのちに溢れたものなので、そういうふうに感じてほしいのです。これが神の存在を感じる練習と呼ばれるものです。当然ながら、神の存在を感じる練習をするには、あなたの意識は今ここになければなりません。

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四次元の意識 [願望実現]


”神意識”と呼ばれる神秘に満ちた意識を、何とか理解したいと考えているでしょう。この意識が、目に見えるものでも自分で実感できるものでもないので、それを自分からかけ離れた遠いところにあるもの、時間や空間をも超えたところにあるものと考えているようです。そこで、あなた方はこのエネルギーと自分たちの惑星との関係について、こう質問します。

「”神なるもの”と呼ばれるエネルギーは、地球界にその存在を明らかにすることがあるのでしょうか。それは人間と直接、その場で目に見える形でかかわることができるのでしょうか」
その答えは「イエス」です。そうできるばかりか、現実にそうしています。そうした例の一つが、毎年12月にイエスまたはキリスト(救世主)を記念して、みなさんが祝うものです。「私たちがイエスのようになれるようにと、私たちを導くためにイエスが地球にやってきたのだということを、心から実感できるようにしてください」と人々は言います。「イエスのように」と言うのは、普通の意味ではなくて、自分が何なのかを明確に知り、”聖なる父”とは何なのかを明確に知り、自分と”父”との関係がどんな関係なのかを明確に知っているという、そういう目覚めた意識において、「イエスのように」ということです。人々は、イエスがしたように奇跡や不思議な行為をあとに残しながら、地球界での様々な体験をしていくことを強く願っています。

人間は、物事があまりに奇跡的に見えるのを好まないという傾向を持っているので、クリストス(キリスト意識)の人生の旅における奇跡の多くは失われています。キリストは最高の意味で魔術師でした。彼はその瞬間に存在するエネルギーをすべて取り入れ、自分自身のなかで変容させ、何か違うものとしてそれを世界に現すということができました。するとまわりの世界は、一瞬前とは違ったものになりました。これこそが本物の魔術師です。呪文を唱えたりすることはまったくなく、ただ絶対に揺らぐことのない目覚めた意識があるだけでした。そして、エネルギーを取り入れて、それまでなかったチャンスや希望、すばらしく高い波動を与えるものを世界に送り出したのです。そのためにイエスはやってきたのであり、それがイエスのしたことです。

キリストの到来とともに、ある贈り物がこの地球に与えられました。キリストの球形のパワーが、地球の時間と空間のなかをものすごいスピードで突進して、地球界のエネルギー域のなかに入ってきたときに、二つのことが起こりました。

まず最初に起こったことで非常に重要なのは、キリストは、「四次元」と私たちが呼ぶ世界とこの次元との間に通路を残し、以来この通路がふさがったことは決してありません。彼が通路を残したわけは、四次元の魔力や荘重さ神秘や美しさ、慈しみや喜び、叡智や静寂のすべてを、誰にでも体験してほしいと思ったからです。これが一つです。これだけでも大変なことです。

二番目の出来事は、クリストスの新しいエネルギーの渦がこの地球界に入ってくるときに、地球界自体のネエルギーを加速して、地球界をそれまでよりも高い波動周期へと移行させることができたということです。クリストスは自分の本質として生きることによって、ただそれだけでまわりのものすべてに変化の機会を与えました。クリストスのエネルギーがまわりの人間に向けられると、内なる深い希求を意識していた人たちは心の扉を広く開けたままにして、それを受け容れました。そうすると、あらゆるものを変化させる異次元からのパワーを感じ取ることができました。当時キリストの近くにいて得られたものは、現在でも得ることができます。そしてそれが得られるのは、静寂のなかにおいてです。



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現実を操るために [願望実現]

現実を操るためには、あなたは夢のなかで目を覚まし、真のリアリティの存在を思い出す必要がある。軌道上にいる宇宙飛行士たちはこの世のものとは思われない夢を見ている。ある宇宙飛行士は、公表された自身の日記のなかで、次のように書いている。「よくなにかの恐ろしい夢を見る。驚いたことに、動機や関連性が何もないのだ。きわめて複雑なコンピューターである脳が疲れて調子を狂わせたか、それとも外部から、つまり、あらゆることが書き込まれ永久保存されているこの世の情報フィールドから、情報が舞い込んだようだ」。通常の人間の意識の範囲では決して生まれるはずのないような夢を見た後では、この宇宙飛行士が可能性の空間の存在に関する公理を聞いても、驚きはしないだろう。

人間の知覚モデルは、カルロス・カスタネダやテウン・マレスの著作に上手く表現されている。そこには、アトランティス大陸からの最後の移住者であるとされるトルテック族の世界観が記されている。彼らの教えによると、人間はたくさんの繊維から成る光り輝くエネルギーの繭によって取り巻かれているという。すべての繊維は肩甲骨の辺りで集合点と名付けられたひとつの焦点に集まっている。この集合点の位置が近くの方向性を定める。

もしこのモデルを並行世界移動の概念と両立させると、集合点が正常な状態にある人は、通常のリアリティを知覚することになる。このような状態では、現実化されたリアリティは、可能性の空間にある然るべきセクターと合致している。もし集合点が脇へずれたら、同期化が乱れ、人は現実化されていない領域にあるセクターを知覚するかもしれない。普通の人々の場合、集合点の位置はしっかり固定されている。何らかの理由で固定されなくなると、集合点はぶれ始め、その人には霊能力が現れてくる。ところで、もちろん夢見もまさしくこの集合点の移動によるものなのである。この知覚の焦点が脇へずれたりしないことが肝心であるだけでなく、また、もしずれても元の位置に戻ることが大事なのだ。さもないと、異常な状態であり続けるかもしれず、精神錯乱と呼ばれる症状が起こってしまう。

意図的に自分の集合点を動かす能力を持っている人は、意識して見る夢(明晰夢)のように、リアリティを操ることができる。もしリアリティに対する支点を自分に取り戻す、すなわち自分が本当は誰なのかを認識すると、リアリティを操る能力はひとりでに現れてくる。しかし、本当の自分を認識することは簡単ではない。有名人のなかで悟りを開いた人は、指で数えるほどしかいない。悟りとは、初めは見知らぬ町の曲がりくねった狭い路地を当てもなくさまよい歩いた後に、空へさっとまいあがり、すべての地形を自分の手のひらのごとく俯瞰し、目的への道がすぐに明らかになることと似ている。

鳥が飛ぶ高さまであなたを持ち上げたりはしないが、たとえ目を閉じてでも進むことのできるルートをあなたに指示してくれる。夢の中で目を覚ますためには、原点が必要となる。もうひとつのリアリティ、つまり真のリアリティが存在することをあなたが思い出すと、今見ているのは夢なのだと理解する。原点となり得るのは、人生において、もし一段分が駄目なら、たとえ半段分でもよいから、意識性を高めることができるという知識だが、それはもう決して小さなことではない。

ほら、いつものようにあなたは通りを歩いているか、誰かとおしゃべりしているか、あるいはお決まりの仕事に携わっている。目を覚ますのだ!周囲を見回して、起こっていることを冷静に眺めよう。あなたは自分の意図によって自分の世界を必要な軌道に乗せる能力を持っている。あなたは自分のリアリティを操ることができる。しかし、それは夢の中での出来事とは似ていないだろう。あなたの意志のちょっとした動きにも反応して、筋書きが優美に変わっていくようにはならない。物質的現実化はタールが動くようにゆっくりと進むのだが、法則を利用すれば、それを制御することは可能だ。そして、まっさきに行うべきは、目を覚ますということなのだ。

どの人生でも、すべては神の夢見が、その視点となるということ。リアリティを夢として認識してみよう。意識してみる夢の場合のみ、あなたは状況をコントロールすることができる。あなたが覚醒状態のまま眠っていると、状況をコントロールしているのではなく、ペンジュラムと闘っていることになる。観客席に下りて行き、観察してみよう。自分をリースにだし(自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしないこと)、観察者のままで、少し距離を置いて行動しよう。

意識性のレベルを維持するためには、自分の思考の進む方向を常にコントロールすることが不可欠だ。これが習慣として身についたら、努力しなくても、自動的に行われることになる。なにしろ、あなたが自分の夢見のなかで目を覚ましたとき、これは夢に過ぎないという自分の自覚を維持する努力が必要なくなるのだ。これとまったく同様にして、覚醒しているときでも、思考の方向のコントロールのやり方を習得することができる。だが、そのためには習慣が根づくよう、最初のうちは「目を覚ます」ことを定期的に自分に強制する必要がある。

少し距離を置いて行動すべきだということを覚醒状態のときに思い出すようになると、あなたは自覚を持つ、すなわち、舞台から観客席へ下りて行くか、それともプレイする観客として舞台上に残ることになる。これこそが意識性の半段分であり、残りの法則を実行するにはそれで充分なのだ。残りの法則のうちで最も重要なのは、重要性のレベルを引き下げ、可能性の流れに従って進む、それに調整である。これらの法則は、人生で起こる状況の迷路のなかを、あらゆる不快なことを避けながら、目をつぶっても確信をもって進むことを可能にしてくれる。

もし可能性の空間のどこかに次の人生を始めるに当たっての支点があって、それに対しては今のこのリアリティを夢見とみなすことができるのであれば、その原点のそもそもの始まりは何なのだろうかと質問してみよう。どうやらそれは神自身のことなのであろう。それぞれの生き物の魂は神の一部である。また、どの人生もすべてが神の見る夢なのだ。さらに質問を続けることもできる。では、神自身には支点が存在するのだろうか、と。

この問題で頭を悩ますのは、希望が満ち溢れている人々におまかせしよう。次の質問もこれと似たような空しさを伴うかもしれない。目に見える宇宙の向こうには何かがあるのだろうか、という質問だ。私たちはこの答えを知ることはないだろう。それは、アフリカで花の蜜を集めている蝶たちが、アメリカにも花が咲いていることを知ることはないのと同じである。この世界は今のままでも十分に美しいとは言えないのだろうか?そんなことはない。なぜあらゆることへの説明をこの世界に求めるのか。手の届くところにある花の蜜をただ楽しむだけでよいのだ。

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高次な意識 [真実]


目覚め、
目覚め、高次な意識で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。
で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。


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覚醒レベル [願望実現]



創造物とは、それぞれの密度で形成されたさまざまな世界が一連につながったものである。あるいは、それぞれの周波数帯域で振動するさまざまな「次元」の現実が集まったものである。こうした全ての世界(次元)は、同じ「空間」を共有しており、静寂・不動の「空」そのものも同じ「空間」にある。

少なくとも、一つの言い方として、そういう言い方ができるということである。より正確に言えば、我々が創造物と呼んでいるものは、連続していて継ぎ目のないエネルギー場であり、「次元」とか「層」といった錯覚を認知しているのは、他でもなく観察者なのである。

例えば、人間の形態を持つ存在は、「可視光線」という周波数の範囲だけを見ている(観察している)。猫など多くの動物は、もっと広範囲の可視領域を持っているため、人間には見えないものが見える。それをもって猫は「異次元」を見ることができると言えなくもないが、実際には、同じエネルギー場でより多くのものを見ているだけのことである。このエネルギー場は、多くの密度(同じ空間を共有しているのであって、階層的に積み上がっているわけではない)から構成されており、その内のどの密度の範囲を解読するかによって「世界」の認識が創造される。その「世界」が存在しているのではなく、観察者によって、「世界」が存在しているかのような状態が創られているのである。

密度場は情報に過ぎず、我々が解読する密度が、我々にどんな情報が利用可能になるかのレベルを決定する。我々がアクセスできる周波数は高いほど、より多くの情報が利用可能になり、「覚醒」も容易になる。人類を操作する者たちは、我々が解読可能な周波数の範囲を狭くすることで、情報を限定し、覚醒を制限して、我々を無知なままにしたいと願っている。これこそが人間(の形態)を遺伝子的に工作する計画の主たる動機である。ごく単純化して言えば、静寂・不動の「あるもの全て」(根源)があり、その創造物として「密度」とか「次元」と言われる連続した周波数帯域がある。これらの密度は、波形の構造物(非物質)であり、多くの密度には、何らかの肉体のような「乗り物」を通じて解読され、表に現れるホログラムの「物質」レベルがある。これらは、いわば異なる「生物種」である。また、さまざまな「物質世界」は、さまざまな密度でもあり、我々がいるこの現実よりも、ずっと「固形」度が低い(密度が低い)ことがある。

「あるもの全て」のさまざまな側面が、こうした密度(世界)を経験することで、「あるもの全て」は自らを経験することができる。我々が知っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような密度の高い次元もある。私は、この我々の世界(我々が解読する範囲の周波数)の事を「第三密度」と呼んでいる。それと近接する世界で、別の共振に合わせて振動しているのが、「第四密度」と呼ばれる領域であり、「アストラル界」と呼ぶ人もいる。

大事なのはこうした名称ではなく、陰謀は、可視光線の範囲外(極めて近接しているが)の密度から画策され実施されていることである。我々が進歩して根源へと回帰するほど、密度の振動的な共振は増し、最後には静寂と不動の状態へと変容していく。そこで我々が「あるもの全て」を自覚する「故郷」に帰るのである。

この道理のことを「天国への階段」のようなものにたとえることができるだろう。つまり、自らの覚醒レベルを、有限から「あらゆる可能性」へ、自己への奉仕から全体への奉仕へと拡大することで、振動の階段を上っていくのだと捉えることもできる。自己から全体への拡大は非常に重要である。自らの覚醒を拡大していくと、自らを、錯覚である「部分」ではなく、全体と同一視するようになる。すると当然の成り行きとして、錯覚である個(自己への奉仕)から生じる利己ではなく、全体に役立つこと(他者への奉仕)へと関心は移っていく。第四密度というところは、依然として自己に奉仕するという状態がある世界の範囲内では、最も高度に進歩したところのようである。

世界の操作者たちは、その知的覚醒レベルを利用し、技術とエネルギー操作を通じて、その段階まで到達したわけであるが、それは彼らが他者への奉仕状態に移行するようになる前の段階として行き着くことができた限界でもある。実を言えば、彼らは自分たちの現実感覚、恐怖、支配欲(支配しなければならないという思い込み)に行き詰っており、それ以上、振動的に進歩したいという願望がない。ただ単に、絶えずつきまとう恐怖をやわらげるためだけに、より支配を強化したいと思っているのである。他の人間を支配したいという欲望、何かを支配したいという欲望は、全て恐怖と不安の現れであるが、彼らは恐怖と不安で疲れ切っている。だからこそ、支配することに夢中になっているのである。意識に目覚めた人は、他者を支配しようとは思わない。他者が自分自身であることを知っているからだ。

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現実を変える [願望実現]


才能ある霊能者や予知能力のある人々は、この非物質宇宙に接続し、まだホログラムに復号されていない設計図の段階で「出来事」を見ている。予知夢や予感を持った人々の話を調べると、未来の出来事を細部に至るまで正確に予知しているケースもあれば、夢で展開された出来事を見ることで行動を変えたため、起きることは起きたが、結果が変わってしまったケースもある。その一例として、ワシントン州の女性が、大きなシャンデリアが揺りかごの中の赤ちゃんに落下した夢を見た話がある。

夢の中で、彼女は夫とともに部屋の中で立ちすくみ、起きてしまった事を眺めていた。時計は4時35分を指していた。夢のシーンでは風が強く雨が降っていたが、驚いてパニックになって目覚めたときは、静かな夜だった。彼女は、赤ちゃんを揺りかごから取り出し、別の部屋で寝かせることにした。それから2時間ほどして、夫婦は大きな音で目覚めた。いつも赤ちゃんを寝かせていた部屋に急いで行ってみると、シャンデリアが揺りかごの上に落ちていた。時計は4時35分を指しており、外は風が強く雨が降っていた。

彼女が何をしたかというと、最終的にホログラムの現実として解読される前に夢で非物質宇宙の設計図にアクセスし、設計図を書き換えたのである。霊能者が読んでいるのは、決まってしまった「未来」ではなく、起こりそうな可能性のある「未来」である。ホログラムへの解読が近づいていればいるほど、実際に起きる可能性も高くなるが、それでも変えることはできるのだ。解読が終わるまでは、さまざまな「未来」(結末)の可能性があり、それは選択可能である。

非物質宇宙は、そのものずばりの予知、あるいは象徴的な予知の形で通信することができる。私は、ある夜、信じられないほど明瞭な夢が見たことがあり、象徴的に「未来」を見た。夢の中で私はベッドで寝ないで起きていて、誰かわからない人物がシーツの下の滑り込んできて、ベッドを蛇のような横揺れでガタガタと揺さぶった。それからひょっこりと私の隣に顔を出し、空の財布を振っていた。その2日後に、その人物が私に金を要求し始めた。

全てがどこから投影されているのかを理解することなくして、「この世界」を変えることはできないし、地球規模の陰謀を終わらせることもでいはしない。そして今にしてそれが分かった。波形の情報の設計図である。非物質宇宙である。

世の中の操作者は、実際には「物質」の世界を直接に操っているわけではなく、我々が「物質」の世界に解読する元の情報設計図を操っているのである。ロスチャイルドの地球規模の金融システム構造物は、非物質宇宙に築かれており、ホログラムとして上映されているに過ぎない。いったん非物質宇宙で設計図がセットされると、基本的にそのプログラムは、変更でもされない限り、実行され続ける。

オーウェル的な策略が見事な同期生とスピードで展開されているのは、何もかも同時実行するようにコンピュータに情報をプログラムしておきさえすれば、あとはエンター・キーを押すだけでよいのと同じである。我々が波形をホログラムに解読するとき、我々はエンター・キーも押しており、非物質宇宙における振動の可能性の「プール」の中から一つの結末を選び出しているのである。

我々を日々襲っている大衆心理操作、意識下の誘因や指示は、我々の無意識(非物質宇宙で動いている波形レベルの存在)をターゲットにしている。操作者は、非物質宇宙の波形構造物にあるあまたの可能性の中から、彼ら自身のプログラムを人間が選んでホログラムの現実に解読するように人間に自己認識・現実認識を植え付けようとしている。人間の解読システムを彼らのチャンネルにチューニングしているようなものである。操作者の陰謀集団は、このレベルでプログラムを書き(書き換え)、それがホログラムの現実となって展開されているわけだが、そのためには人類をマインドに閉じ込め、意識から切り離しておく必要がある。

このことを知れば、地球社会が築かれ操られてきた歴史に完全に合理的な意味があることが分かり始めるだろう。彼らは、波形の振動領域との交流を基本とする生贄などの儀式により、非物質宇宙をプログラムし、操っている。こうした仕組みを全て理解し、意識に目覚めたマインドであれば、もはや単なる予測屋や経験者に甘んじていることはなく、意識下に働きかけ、個人レベルでも集合レベルでも、非物質宇宙の設計図の変更に着手することができる。そうすれば、経験・認知の物質レベルも変えることができる。

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現実化のパワー [願望実現]


自分の選択したものが現実化するのを助けてくれるパワーが、幾何学的完璧性の次元から送られてきます。この方法には危険なものが隠されています。人がこのパワーを意識的に使い始めるときに、地球界やあなたに襲い掛かってくるような、「怪物」を創造しないという保証があるのでしょうか。この点を説明するために、創造の世界で何が実際に起こるのかという基本的な例を示しましょう。

例として、あなた方が最大の悪人とみなしている、アドルフ・ヒトラーを使いましょう。ヒトラーは、当時重くのしかかっていた社会的経済的問題から自国の人々を解放したい、というヴィジョンから出発しました。ヒトラーが自分の目標を心に描くと、幾何学的完璧性の次元で、それが一つの形となって生まれました。

彼の望みはとてつもなく巨大だったので、それを育てて行くには、実に大量のパワーが必要でした。その形をヒトラーと共に満たす人が何万人何十万人といなければ、とてもヒトラーの夢をあれほどの規模で現実化し、それほどの人々や国々に影響を与えることはできなかったでしょう。アドルフ・ヒトラー一人で世界を支配しようとしても、必ず失敗していたでしょう。彼一人には、あれほどのスケールの大きな夢を実現する力はとてもありませんでした。彼の夢を知って、その実現を望んだ多くの人々が、その夢に力を貸して大きく育て上げなければ、それは不可能でした。ヒトラーが自分の夢を創造していく過程の途中で、人々は「いや、私はこんなのはごめんだ」と言うことは、いつでもできたのです。でも人々はそうしませんでした。

このことは、あなたとどう関係があるのでしょうか。誠意にもとづいて、人のためになると思うものを創造するときに、それがまわりの人のためにならないものなら、やがて自分にもまわりの人にも、それがわかってくると思います。心を開いて愛の境地から創造するときと、復讐や怒りや分離意識から創造するときとでは、やはり気分も感覚も違います。ですから、自分の人生のなかで行動を選択し、それを創造する時には、よく考えてからにしてください。自分の望むことが、すべての人にとって良い結果をもたらさないかもしれないと思うときには、最善の結果をもたらさないのなら実現しなくてもいいということを、宇宙に意思表示するのです。これは安心して使える防衛策です。自分を信頼してください。

ヒトラーは自分の行動によって、精神の高揚を感じたと本当に思いますか。それとも彼は、何かに追い立てられるように、やみくもにそうしたのでしょうか。何かに追い立てられる気持ちと、精神の高揚と無欠性を感じることとの違いを、あなたは知っているはずです。これからもっと学んでいくにつれて、この方法を信頼することができるようになります。自分の人生によいものや真実のものや美しいものを創造する方法は、すでに知っていますね。この方法が上手く作用しているのが分かり、それを実感するにしたがって、次第に自信がついてくるでしょう。

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