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意図の力 [願望実現]

おそらくあなたは永遠の命をもたらす聖杯という言葉を聞いたことがあるだろう。それを求めてたくさんの人々が探し回った。ナチス・ドイツも含まれる。無限の力と権力を得られるというような伝説はいつの時代にも語られる。浅はかな思い違いだ。どんなものも力を与えてはくれない。呪物、呪文、その他魔術に使う道具などは、それ自体としてはどんな力も持っていない。意図の力は、そうしたものの属性を用いる人々に備わっている。この属性は、発育が遅れてまどろんでいる意図の退化器官にスイッチを入れるよう潜在意識をある程度手助けするだけなのだ。属性の持つ魔力を信じることで、意図を目覚めさせるための刺激が与えられる。

古代文明は、魔術のための儀式を行わなくてもよいほどの完成域に達していた。当然のことながら、その威力は強力な過剰圧力を産みだした。そのため、外的意図の秘密を発見したとされるアトランティスのような文明は、平衡力によって滅亡の危機に瀕することが度々あった。そこに秘められた知識の断片は、失ったものを再生するための魔術の実践方法として私たちの時代にまで引き継がれた。しかしながら、それは、内的意図の誤ったルートを通して行われる拙劣で上っ面を撫でるだけの試みに過ぎない。力と偉大さの本質である外的意図は、依然として謎のままである。人間の内的意図が優先的に発達し、外的意図が失われたのは、振り子による誘導である。なぜならば、振り子は内的意図のエネルギーを摂取しようとするからだ。外的意図をコントロールすることは、振り子から完全に自由な状態を手に入れて初めて可能になる。この点で振り子は、人間との闘いにおける最終的な勝利を収めたといえる。

目的の達成に向けられた思考エネルギーは、願望、内的意図、外的意図の三つの形態で現れる。願望とは、目的そのものに注意を集中することだ。願望は何の力も持っていない。目的についてどれだけ思おうが、目的をどれほど望もうが、何も変わらない。内的意図とは、目的へと向かう自分の進む過程に注意を集中することだ。これは作用するのだが、多大な労力を要求する。外的意図とは、目的そのものが現実化する様子に注意を集中することだ。外的意図とは、目的がひとりでに現実化することをただ単に容認する。この際、目的の現実化の可能性はすでに存在し、それを選択するだけだという揺るぎない確信があることは言うまでもない。目的は、内的意図によって達成へと向かわされ、外的意図によってその選択が現実化される。

内的意図は、「私が要求したいことは、・・・」という常套句で特徴づけられる。外的意図は 「状況は・・・になる」または「結局・・・になってしまう」というように、まったく別の規則に従っている。前者の場合、あなたは世界が服従するよう、積極的に世界に影響を及ぼす。後者の場合、あなたは傍観者という立場を取り、あたかもすべてが自然にそうなるように、結局あなたの意志の通りになる。変えるのではなく、選ぶのだ。夢の中での飛行は、まさに「私は飛ぶことになってしまった」という表現がふさわしく、「私は飛ぶことを要求する」「私は飛びたい」というものではない。

内的意図は、まっしぐらにがむしゃらに目的に向かう。一方、外的意図は、目的がひとりでに現実化するプロセスに向けられる。外的意図は、目的を達成しようと焦ったりしない。目的はポケットの中に入っているのだから。目的が達成されるであろうことは、ほとんど疑問の余地がないので、議論してみるまでもないことだ。外的意図は、目的の現実化を、不動のもの、不可避のものとして、容赦なく冷静沈着に押し進める。

作用しているのがあなたの内的意図なのか、それとも外的意図なのかを見極めるには、たとえば、次のような疑問文を利用していただきたい。この世界から何かを獲得しようとしているのか、この世界自らがあなたの欲しいものを与えてくれるのか?陽の当たる場所を求めて闘っているのか、世界があなたを抱擁しようとして手を差し伸べてくるのか?閉ざされた扉に押し入ろうとしているのか、扉があなたの前でひとりでに開くのか?壁に穴を開けようとしているのか、壁があなたの目の前で崩れ落ちて道を開けてくれるのか?あなたの人生において何らかのことがらを呼び起こそうとしているのか、何らかのことがらがひとりでにやってくるのか?一般的に言うと、内的意図によってあなたは可能性の空間に対する自分の現実化の位置を移動させようとするのに対し、外的意図は、あなたの現実化が必要なところに位置するよう、可能性の空間そのものを移動させる。結果は同じだが、達成への道筋は大きく異なるのだ。

もしあなたの行動が、先に紹介した疑問文の後半部分で表すことができるならば、あなたは外的意図をつかまえたことになる。あなたが闘うときは、可能性の空間での自分の現実化を推し進めるよう努力する。あなたが選択を行うときは、可能性の空間は自分からあなたの方へとやってくる。もちろん、可能性の空間の方からあなたの現実化に対する位置を自然に動かしてくれるようなことはない。そうなるためには、あなたは一定の行動を取らなければならないのだ。ところが、この行動は、一般的に受け容れられている聞きなれた考え方の枠外にある。外的意図と内的意図とで、どのようにアプローチが違うのか例で示してみよう。外的意図は礎石ともいうべきものだ。そこには監視員の謎を解く鍵、すなわち、なぜこの世界と闘う必要がなく欲しいものをこの世界でただ選択するだけなのかという理由が隠されている。

外的意図にとって不可能なことは何もない。もしあなたにキリストが持っていたような外的意図があれば、現実の世界でも空を飛ぶことができるし、水の上を歩くこともできる。この場合、消して物理法則に違反するわけではない。なぜなら、物理法則が働くのは、個々に選択され、物質的に現実化された同じセクター内だけだからだ。ところが外的意図の働きは、可能性の空間の様々なセクターを経由する現実化の動きの中でのみ現れる。したがって、現実化されたひとつのセクター内で空を飛ぶことは不可能なのだ。可能とするためには地球の引力に対抗する必要があるが、それは内的意図の仕事であり、重力を克服するためにエネルギー消費が求められる。自由飛行は、夢の中であっても、現実生活であっても、物質空間におけるリアルな運動ではなく、あなたの現実化の相対的状況の変化なのだ。言い換えると、肉体が物理空間において次々に新しい位置で物質化されていくことである。

もうひとつ付け加えると、あなた自身が空間を飛ぶのではなく、あなたの外的意図の選択に従って、空間があなたと相対的に動くのである。おそらくこの説明でもそれほど正しいようには聞こえないかもしれないが、ここで私は相対性理論に深く立ち入るつもりはない。私たちにできることは、これが本当はどのようにして起こるのかを推量することだけである。

飛行するためには、その可能性を絶対に信じることが必要だ。なぜキリストは「あなたがたの信じている通りになるように」ときっぱり言ったのか?なぜなら、意図を持たずに、何かを受け取ったり行ったりすることはできないからだ。信念のない意図はない。歩くことが可能であると信じることなしには、一歩も前へ進めない。しかしながら、現実生活で、夢の中と同じように、飛ぶことができることを理性に納得させることはうまくいかない。いずれにせよ、意識が普通の状態であればそれは無理だ。インドのヨガ行者の一部では、瞑想中に床から浮き上がるという。彼らの意図は、身体が宙に浮かぶ可能性の動きに同調するのに十分であるのかもしれない。一般の人々に比べ、ヨガ行者たちの方にはたいへん大きな可能性があることに注目すると、外的意図を意志に従属させることの難しさが想像できるだろう。

夢の中であれば、まどろんでいる理性は空を飛ぶ可能性を容認することもあろうが、意識がはっきりしている理性にとっては、どんなに説得されようと、空を飛ぶことは理解したがいことなのだ。信念だけでなく、知識もなくてはならない。信念というものは、疑念のつけ入る隙を示唆している。信念のあるところ、疑念の余地あり。知識は疑念を排除する。あなたが放り投げたリンゴが地面に落ちるのを怪しんだりはしないのと同じことだ。あなたはこれを信じているのではなく、ただ知っているのだ。純粋な外的意図は、疑念による曇りがない。これはすなわち、信念からも解放された状態にあるということになる。夢の中であれば、飛行するためには外的意図をほのめかすだけで十分であるのに、慣性が働く物質的現実化の世界にあっては、意図は絶対的に純粋なものでなければならない。しかし、純粋な意図を持つことができなくても、落胆してはいけない。あなたの目的を現実化させるためには、「二級品」の意図でも十分役に立つことだろう。ただし、慣性が働く現実化が実行に移されるためには、一定の時間を要することになる。



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