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現実をコントロールする [真実]

あなたは操り人形ではない。だからといって、自分を人形遣いだと思ってうぬぼれる誘惑に負けないよう警告をしておこう。そうすると平衡状態が崩れ、他人に対するうぬぼれ、優越感、無関心、または軽蔑などの最初の兆しが現れた時点で、必ず痛い目に遭う。目の前の出来事全体を完璧にコントロールすることなど、たとえ夢の中であっても実現できない。あなたは選択する権利を持っているだけであって、変更する権利は持っていない。ゆったりとくつろいでよいのだが、客人であることは忘れないでほしい。「軽演劇」のような気分で問題に対処することは、だらしなくふるまうことでも慎重さを欠くことでもない。重要性を覚めた目で評価するということなのだ。意識性を、取り巻く世界をコントロールしようとすることと解釈するのは間違いだ。理性は、ことがらの展開を変更しようとすることや自説を主張すること、つまり、流れと闘うことに慣れている。もしあなたが観客席を下りて行ったら、力ずくでシナリオを書き換え、役者たちに自分の意志を押し付けたい誘惑に駆られることだろう。このようなふるまいをしてはいけない。なぜならそれは、流れと闘おうとする私的意図だけに基いているからだ。可能性の流れに沿って動くべきだということを何度も思い起こしていただきたい。意識性とは、コントロールではなく、観察することだ。コントロールは、白黒が反転したネガのような世界で手足をじたばたさせることなく、好ましいシナリオを思い描き、それを自分の人生に入れて、心から受け止めることだけに向けられる。世界に自分のシナリオを押し付けるのではなく、自分のシナリオの可能性を認め、その可能性が現実化するのを容認する。そして自分に対しては、そのような可能性の所有を容認するのだ。魂と理性が一致する場合に限り、あなたは世界と闘うのをやめ、その選択を容認するだろう。

ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者の役割は私たちにふさわしくない。人生という名前のついたゲームで、自分の運命の主にどのような役割を割り振るだろうか?それは見張り役という役割だ。現実の生活におけるあなたの意識性の度合いが高まれば、その分自分の運命を効率よく取り仕切ることができるようになるのだ。それに、見張り役という役割は、執行者という役割よりもずっと心惹かれる。指揮官、上司、リーダーなどは、単なる執行者と比べて、人生において意欲的に活躍する立場にいる。これは彼らが負っている責任が大きいからというだけではない。管理組織の中の労働者であれば、義務の執行者よりはむしろ見張り役の方がよい。平の労働者は強制されて自分の義務を履行しながら眠りこけてしまいかねないのだが、見張り役の方は置かれた状況から「より覚醒するよう」になる。あなたが見張り役の立場になってみれば、エネルギーがあふれ、活力がわいてくることをすぐに感じるだろう。なぜなら、今やあなたは、ただうつむいて他人の意志を遂行するのではなく、自分で自分の運命を切り開かなくてはならないからだ。自分の運命に対する責任は、荷物ではなく、自由なのだ。人が動物と異なるのは、知能のレベルというよりは、意識性のレベルにおいてである。動物は夢見ている状態により近い。動物の主な行動は、本能と条件反射という形で現れる自然によって組み込まれた紋切り型のシナリオで定められている。動物の行動とは、変更が利かないシナリオに従って劇を演じるようなものだ。その意味では、人間は「もっと覚醒している」。人間は、この世界における個人として、自分自身と自分の居場所をありのままに認識する。だが、それでも、人の意識性のレベルはまだたいへんに低い。人は部隊の上にいて、自分の役割を演じる。人はすっかりこのゲームに飲みこまれている。

いわゆる賢いと言われる人々の秘密は、意識性にある。頭脳の明晰ぶりは、意識性の度合いで決まる。明快に思考し明快に話す人々もいれば、頭の中がこんがらがっている人々もいる。頭の切れる人もいれば、頭の鈍い人もいる。これは知能の発達レベルではなく、意識性のレベルが異なるからだ。頭の切れが良くないというのは、「何も知りたくない。私を放っておいて」というように、望ましくない情報からの心理的防御だ。反対に、頭の切れが良いというのは、「全部知りたい」というように、率直さ、旺盛な探究心、情報を受け取って処理する願望だ。頭の切れが良くないのは、心理的発達の遅れによる結果である場合がある。これは、たとえば、幼いころに強制的に何かを勉強するよう仕向けられ、この際、心理的圧迫を受けたことが原因となっている。現実の生活で私たちがより深く眠り込んでしまうと、失敗を犯すこともそれだけ多くなる。ガラス窓にぶつかっていくハエも、深く眠りこけている。ゲームに没頭すると、現実を広い視野で客観的に眺めることができなくなる。ゲームでしつこく同じことを繰り返すと、知覚できる範囲が狭まり、周りが見えにくくなる。これが減員で失敗をすると、「私の眼はどこについていたのだろう」と言って、人は驚く。まるで狐につままれたように思う。エイプリル・フールの4月1日には、いっぱい食わされるものと誰もが知っているはずなのに、それでも人は罠にはまってしまう。これを白昼夢と言わずして、どう表現すればよいのか?

人が現実を直視したくないときには、多かれ少なかれ無意識性が現れる。ダチョウは、迫りくる現実から逃げ出したいと思うと、頭だけを砂の中に突っ込んで隠れる。人の場合は、「何も見たくない、何も聞きたくない、何も要らない、私に構わないで」というように、外の世界から隔絶されたいと望む。毛布に潜り込んで寝入ってしまうことはできないから、人は知らず知らずのうちに意識性のレベルを下げて、自分の知覚を遮断しようとする。たとえば、おとなしく悪気のない人は、自分の身を縮めて避けようのない一撃をよけようとする。しかし、その人はそれを撃退することはできない。なぜなら、意識性が恐怖によって遮断されていて、まるで目の前に幕がかかっているかのように反応が鈍くなっているからだ。同様に、怒りも理解の妨げになる。ゲームに頭までどっぷりと浸かってしまっている人は、周りのものが何も目に入らず、何も聞こえない。「腹立ちまぎれ」という言葉はここから来ている。恐怖と怒りは、無意識性の究極の現象である。しばしば集団は私たちの警戒心を軽く麻痺させようとする。たとえば広告は、人々が多くの時間を半意識状態で過ごしていることを利用して、ゾンビ化させる影響を及ぼす。取り巻いている現実を明確に知覚する意識性というものは、血液中にアドレナリンが放出される状況になったときだけ現れる。そんなわけで、夢の中で目を覚まし、「おい、お前たち、馬鹿にするのもいい加減にしろ。これは夢でしかない。それも俺様の夢なんだから、主は俺様であって、お前たちじゃない」というような文句を口にすることもたいへんに難しい。

意識性は、潜在意識から直観的な情報を引き出すのに役立つ。「なぜ私は急にこうしたくなったのだろう?」という思いにとらわれたら、それはしてよいことなのだ。魂の声はか細くて、ほとんど聞き取れないくらいだ。これに対し、理性は「黙れ、私には何が必要で、何をすべきか、自分でわかっているぞ」と答える。明け方の星々のさざめきに常に耳を傾けることを習慣にする必要がある。半意識状態では、内なる声がささやいていることに手遅れにならないうちに気づくことはほとんど不可能だ。たとえあなたが朝からあなたの魂の声を聞こうと準備していても、もし眠ってしまったら必要なときに思い出すことができなくなってしまう。以上から、魂と理性の一致が自動意図を生み出し、自動意図が私たち自身の利益に従うよう意識性がそのためのチャンスを与えてくれることを明らかにしてきた。夢の中での魂と理性の一致は、簡単に達成される。これは、夢の中であれば、権威を振りかざす理性から魂が自由でいられるという単純な理由によおる。意識してみる夢の場合は、コントロールする術はあるが、これはシナリオの修正にだけ向けられる。それ以外では、常識外れのこともすべて許される。夢の中では、理性はどんな軌跡でも受け入れることに同意する。アンデルセンの物語「火打ち箱」にはこんなエピソードがある。夢を見ていると信じ込んでいるお姫様が、兵隊と一緒に屋根の上を散歩することに応じるというものだ。このように、理性は、夢の中なら何でも好きなことを許してくれるのだが、現実の生活では常識的な世界観に病的なほど固執するのだ。

常識で考えられないことに関しては、魂と理性が簡単に一致することはない。常識とは、私たちを一生閉じ込めておく籠であり、そこからの脱出は一筋縄ではいかない。人は神秘的な教えに魅了されたり、空想に耽ったり、信じがたいことを信じたりすることがある。理性は偽りを装うかもしれないが、それでも本当のところ、理性はリンゴがやはりいつも地面に落下すると思っている。だから、自動意図を完全に自分に服従させることは極めて難しい。しかし、そうではあっても、意識性を高めるとコントロールできるチャンスが急激に膨らむことを、あなたは自分の体験で納得することができる。あなたの意識に見張り役が常駐していると、意識性は最大限に達する。見張り役は、ゲームが誰の利益のために行われているか客観的に評価し、あなたが操り人形のようにゲームに引っ張り込まれないよう見守る。いかなる瞬間でも、「眠っているのか?起きているのか?」と自問自答することを忘れてはならない。怖くなかったら、意識して見る夢を試してみるのもよいだろう。しかし、夢が終われば、いつもの現実に戻される。それよりも、意識して過ごす現実の生活の方を試してみる価値があるのではなかろうか?意識して過ごす現実の生活という選択肢は、あなた自身の好みによって世界の層を築く可能性をもたらしてくれるものだ。選択はあなた次第だ。

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病気のゲーム [真実]

誰もが一生のうちに一度くらいは何らかの病気になる。病気になると、不快なことや心配ごとが山ほど起き、ネガティブな考えや感情が発生し、それらは空間へと放射される。そのようなエネルギーは、病気と関係する等時性が成長するためには恵みの土壌となる。等時性はネガティブなエネルギーをいつも非常にうまく吸収する。

病気によって産み落とされた等時性は、最強の等時性のひとつである。何といっても病気や伝染病なのだ。そのような等時性と対極しているのが、ありとあらゆる医学の等時性だ。何と強力な構造だろうか。クリニック、サナトリウム、研究所、製薬工場、薬局、学会、教育機関。

医学の等時性の正式な目的は、病気の撲滅である。だが、現実には、病気の撲滅というのも、破壊的等時性につきもののネガティブな現象を山のように生み出す。なぜなら、破壊的等時性の主な目的は信奉者たちを引きつけて離さないでおくことだからだ。

たとえば公の医学は、正統とされない(つまり公式な医学のカテゴリーには属さない)治療法に対しては敵意を持って対応する。公の医学こそ時代遅れで信用のおけない考え方だという批判は、もしそれが伝統的でない治療の信奉者たちからのものであれば、非科学的と宣言される。新しいどのような治療法であっても、それが公の医学に属していなければ、公の医学からは強い敵意をもって迎えられることになる。一方、正統とされない治療法の信奉者たちも、正統とされる治療法について中傷することをためらわない。

病気の等時性や医学の等時性の影響下に置かれている人は、自分が若い頃味わった気分を取り戻すことができない。健康にまつわる問題で悩むことが少しもなかったあの頃の気分である。当時のあなたは健康に意義を与えず、自分の健康に単に注意を払わないだけのことだった。なぜなら健康が脅かされることはなかったからだ。従って、思考エネルギーの放射にも病気の等時性の周波数は含まれていなかった。

年を取るにつれて、程度の差こそあれ、あなたは徐々に病気の等時性の影響下に入ってくる。病気の等時性の周波数でエネルギーを放射することによって、等時性にエネルギーを与え、等時性との依存関係に陥り、病気がちな人生ラインへと乗り移る。そのため、以前のような健康を取り戻すためには、何よりもまず病気の等時性との関係から逃れる必要がある。それは、等時性からの情報を自分の中に取り入れず、等時性のゲームに加わらない、つなわち等時性から身をかわす方法を用いることを意味する。もしあなたが病気のことで深刻に悩んでいるのなら、治療のゲームに加わり、自分の身体に気を配る必要がある。そうすれば等時性は消え失せることになる。病気の等時性のふるまいに関する例をいくつか見てみよう。

毎日繰り返される薬のCMは、ある薬を飲んで健康を取り戻した幸せな人々のことをあなたに示してくれる。いや、それどころか健康面以外でも、彼らはあらゆることで大成功を収めているという。魅力的な餌ではないか。この餌は効果抜群なのだ。なぜならすでに考察してきたように、大部分の人々は半ば無意識な状態で暮らしている。あなたの脳には「薬局へ行き、薬を服用し、褒美をもらう----あらゆる場合の完璧な手順」というプログラムがインプットされる。だが、これはまだそれほど恐ろしいことではない。このCMには別のもっと深い意味を持つプログラムが隠されているのだ。

ちょっと考えてみよう。通常、CMにはきわめてまともで魅力があり、非常に成功している人々が登場する。(あなた、どうしたんです?気分でも悪いのですか?)。そのような人々は皆何らかの病気に罹るのだが、それでも服用した薬のお陰ですぐに元気になる(あなたもそのうちの一人なのだ)。私たちすべての意識と潜在意識には、誰もが病気に罹るようにできていて、すでに罹っているか、それともすぐに罹るのだという事実が叩き込まれる。こうして、多くの人々がゲームの条件を受け入れることになる。これこそが表立ったことにはされていないが破壊的等時性の真の姿なのだ。破壊的等時性は、人々を病気から全快させず、自分の信奉者にしておく、つまり人々の耳に「お前さんは病気だ。薬を飲まなければだめだぞ」と吹き込むことを使命と心得ている。

信奉者たちを引きずり込むための興味深い方法がもうひとつある。それはあいにくの天気だという予報を流すことだ。磁器嵐、気圧の急変、その他ありがたくない要因についての情報に基づいたものだ(そのような現象は、多かれ少なかれ、ほとんど毎日起きている)。それらのデータから、天気予報が作られる。「○○に罹っている方にとって、今日か明日は辛い一日となるでしょう」。起こり得るすべての病気と患者を待ち受ける病状を思い浮かべている等時性が、幸せのあまり胸がいっぱいになっているのは、さぞかし滑稽なことだろう。しかし、すぐにぞっとしてしまう。そうでなくても健康不安を抱えている人々の意識に、何という破滅的なプログラムがインプットされてしまったことか。そんなことを聞いてしまったら、家から外に一歩も出たくなくなるか、箱の中にでも閉じこもりたくなるかもしれない。もちろんあいにくの要因は気分に影響を及ぼすが、なぜ最初からそれに自分を同調させてしまうのか。多くの人々、とりわけ年配の人たちは、判決でも受けるようにして、等時性からの声に耳を傾け、あらかじめ病気気味になるプログラムや症状が悪化するプログラムを自分用に作り上げてしまうのだ。そのような予報などは、人々を自分の影響下に置こうとする等時性の恥知らずで厚かましい欲求の典型である。

そして最も典型的な話題とは、知り合いや親せきと健康について話すことである。そのような場合、健康増進ではなく、病気とその治療についての話になるのが普通だ。集まったうちの一人が何かに取りつかれたような表情で四六時中痛むところにてこずっていると言って話しの口火を切ると、二番手が待ってましたとばかりに、「年はとりたくないもの、と言うからね」と呻くように反応する。その場に居合わせた全員が病気の等時性の周波数でせっせとエネルギーを放射する。こんなエネルギーは、病原菌同様、感染力を帯びている。こうした集まりからは遠ざかるべきだ。さもないと、あなた自身が気づかないうちに病気の等時性の周波数でエネルギーを放射するようになってしまう。

病気の等時性を見分けるコツはとても簡単だ。病気の等時性は病気やその治療についての情報によってあなたをおびき寄せようとする。もしあなたがそうした情報を無視する、つまり情報を聞き流して、深刻には受け取らないようにしたのなら、等時性は意気阻喪し、あなたをそっとしておいてくれるだろう。これは等時性から身をかわす方法だ。もしあなたが病気やその治療に関する情報を小気味よい高笑いや嘲笑で迎えるのであれば、等時性は恐れをなしてあなたの前から姿をくらますことだろう。これは等時性の消滅である。

病気の等時性と別れたあなたは、完全な自由を得る。だが、その自由は長くは続かない。何らかの等時性の信奉者になっていたいというふうに人間はできているからだ。だから、そのうちあなたは等時性の影響下に踏み入るという危険を冒す。そうならないためには、健康増進の等時性の味方に加わり、宙ぶらりんの状態から脱しよう。健康増進の等時性は心身の強化につながるあらゆることを取り仕切っている。健康な生き方を志向する信奉者になれば、病気との辛く憂鬱な闘いと比べて、どれほど喜ばしくやりがいのあることかわかるだろう。

もし人が自分の健康に気を遣っているとすれば、その人が健康な人生ラインの周波数で思考エネルギーを放射していることは明白であり、だからこそ、その人は病気どころではないのだ。このように、対極に位置する二つの生き方がある。そのひとつが病気の治療であり、もうひとつが健康についての気遣いなのである。病気に対して、前者はその処理を内的意図で行おうとし、後者は外的意図にまかせようとしていることに疑いはない。あなたは健康なのか、病気なのかという自分の生き方を、自分で選んでいるのだ。

生理エネルギーは行動を実行することだけに消費される。意図は自由エネルギーを用いて形作られる。自由エネルギーは方向が逆に二つの流れとなって体を通過する。ストレス状態では意図のエネルギーは遮断される。ストレスから逃れるためには、目を覚まして、重要性を投げ捨てる必要がある。もし重要性を投げ捨てることが不可能であるなら、せめてリラックスしようとして力を消費することはやめよう。エネルギー体操を行うことで、あなたはエネルギー保護被膜を強化することになる。自由エネルギーを蓄えようとしてはならず、エネルギーがあなたの体を自由に通過するようにしてあげよう。高い生体エネルギー特性とは、幅の広いエネルギー・チャンネルのことである。エネルギー・チャンネルは、エネルギー体操によって十分に鍛錬される。肉体の浄化はエネルギー・チャンネルの幅を著しく広げる。病気になることと治療を受けることは、内的意図による。健康的な暮らしをするのは外的意図による。どんなことがあったも破壊的等時性のひとつである病気の等時性のゲームを受け入れてはならない。運動を行う際には、中心部を通るエネルギーの流れに注意を向けよう。意図とは、意気込むことではなく、注意を集中することである。

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高次な意識 [真実]


目覚め、
目覚め、高次な意識で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。
で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。


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仮想現実・マトリックス [真実]

仮想現実領域を超越すれば時間も空間もない



「空間」は存在しない。科学者たちは、原子を構成する粒子が、驚くべき「距離」の離れた粒子と互いに一瞬のうちに交信することが理解できない。空間など存在しないのに、空間という前提を置いて彼らは考えているのだ。それは一滴の水と海のようなものである。粒子というものは、我々が錯覚として認知するだけで、存在しない。全ての粒子は、同じ一つの粒子である。従って、複数存在しないのであるから、そもそも「互いに」交信する必要がない。そして、ある場所から別の場所へと移動することもない。空間など存在しないし、複数の「空間」もないからだ。

時間と空間という錯覚は、感覚器官を通じて受信した情報を脳が読み込む方法によって生じる。アインシュタインが言ったように、宇宙は「時間と空間で限られている」が、それは仮想現実を創造した者が、そのように仮想現実という構造物をプログラムしたからである。仮想現実の領域を超越してしまえば、時間も空間も存在しない。時間と空間の認知は、ソフトウェア・プログラムの一部に過ぎず、我々はそれを時間と空間に思えるような経験へと解読している。これが「自然の法則」の正体である。この仮想現実というゲームの創造者が、それが誰であれ、そうであるべきと決めたのだ。今日、実にたくさんの人々が遊んでいるコンピュータ・ゲームを制作しているプログラマーと同じ原理である。ゲームのプログラマーたちが、どんなルールでどのような制約を設けるかを決める。だから、ゲームによってルールもさまざまである。

科学者たちも、他の次元(並行宇宙)では、物理法則もずいぶん違ったものになりうることを発見している。「並行宇宙」とは他の仮想現実であり、異なる周波数帯を振動的に跳躍できれば、我々はそうした並行宇宙と相互交流することも可能であり、向こう側から我々に働きかけることも可能である。いみじくも「理想郷」という言葉は、「存在しない場所」という意味であり、これは時空という錯覚を超越した世界である。昔の歌に「あなたはそこらじゅうにいるし、どこにもいない。それがあなたの居場所」とある通りだ。無限の広がりも、針の先の点も、全ては一つの大海であるから、実は同じである。詩人のウィリアム・ブレイクは、時間と空間の真実を捉えてこう書いている。

一粒の砂に世界を見る
野の花に天国を見る
手のひらに無限をつかみ
一刻に永遠がこもる


映画『マトリックス』では、人類が錯覚の現実を経験するよう騙されているというテーマが繰り返し描かれているが、その点は実に正確である。だが、真実から離れているのは、マトリックスの外側には、本当の固形の世界があると、ほのめかしているところである。これ以外にも、我々が仮想現実の宇宙に住んでいることを示唆する作品の多くは、仮想現実の向こうに本当の物質世界があるとしている。そんなことはない。創造には、仮想現実の世界(複数)、そして、根源意識しかない。「物質」は存在しない。

我々は遥かに洗練されたバージョンのコンピュータ・ゲームを体験している。ただし、大半の「人間」は、ゲームを楽しんでいるのではなく、ゲームに翻弄されている。マインド、「知能」、爬虫類脳を通じて、ゲームに遊ばれているのである。遺伝子の操作と情報の抑圧により、本来ならば根源意識の遊び場であるはずの創造物が、認知の監獄に変貌してしまったのである。

仮想現実ゲームそのものは、善でも悪でもなく、正しいとか誤っているとかもない。経験するための乗り物(道具)に過ぎない。操作者はゲームの大部分から人類を隔離し、遺伝子操作などの手段を使って介入し、極めて狭い周波数帯域(可視光線)へと我々の認知を閉じ込めたのである。操作者の陰謀の真髄は、我々を無知なままにすること、我々が何者なのか、我々がどこにいるのか、我々はどんな性質の現実を体験しているのかを、我々が知らないままにしておくことである。この物質的に見える世界だけに我々の関心を向けさせ、我々は肉体であり、名前であり、職業であり、所得階層であると信じるように計画している。

だが、我々はそんなものではない。我々は根源意識である。我々が「生産」と呼ぶ期間だけ、仮想現実の宇宙を体験している根源意識である。肉体コンピュータは、この現実と相互作用するための乗り物であり、我々の実体ではない。インターネットを使いたいと思っても、それだけではできない。インターネットという集合的現実を経験するには、データが流れる導管が必要である。根源意識も同じである。どんな現実と交流する場合であっても、その現実の周波数帯の範囲内で共振していなければ、相互に作用しようとする二つのラジオ局・テレビ局のようなものである。異なる波長にある限り、それは不可能だ。

根源意識は、この現実(密度)に直接作用することは不可能であり、そのために宇宙飛行士が宇宙服を着るような感じで、人間の肉体コンピュータを「着る」必要がある。もっと正確に表現すると、根源意識が経験したいと思っている「世界」の周波数帯域の範囲内で共振する遺伝子的な「望遠鏡」を通じて、根源意識は眺めているのである。わたしの根源意識がパソコンのキーボードを叩くことができているのは、そのためである。

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変性意識状態 [真実]


あなたは全て



精神活性物質への関心は、LSDのような薬物の使用として60年代に爆発的に高まったが、その大部分がこの現実からの逃避であり、新たな現実への橋渡しにはならなかった。わたしはこの現実が、監獄から楽園に変わっていくのを見たい。

変性意識状態の経験は、我々が相手にしている策略を理解するのに役立つし、この観点からLSDなどの薬物の効果を研究してきた人々は、それによって現実とは何かを深く学ぶことができたはずだ。その一人が、『ホロトロピック・マインド』の著者でジョン・ホプキンス大学の医学部教授だったスタニスラフ・グロフである。彼は国際トランスパーソナル協会を設立し、人々を変性意識状態にする「ホロトロピック呼吸法」という手法を開発した。

グログは、医療への応用が可能かどうか追究するため、1950年代にLSDの作用を研究するようになるまでは、頑なな物質主義者・無神論者だった。それから彼は何十年も研究を続けることになった。最初にLSDを経験したとき、彼自らが「自分自身の潜在意識との衝撃的な出会い」と表現する経験をした。そして即座に、学校や大学で教えられている。科学界の権威の揺るぎない「真実」が空想に過ぎないことに気づいた。

既存の科学では、有機物と生命は、ただ単に原子と分子がランダムに相互作用することにより、原始の海から化学的に分泌して成長したと考えている。単なる偶然と「自然選択」により、物質が生物細胞へと組成していき、細胞が中枢神経系を持つ複雑な多細胞生物へと組成していったと論じている。そして、こうした説明とともに、脳で発生している物質的プロセスの副産物として意識が生じたという仮説が、西洋の世界観の最も重要な形而上的見解になっている。現代の科学では、創造的知性とあらゆるレベルの現実との間に深い相互作用があることが明らかになっており、こうした単純な宇宙のイメージは、いよいよ受け容れがたくなっている。人間の意識や無限なまでに複雑な宇宙が、生き物でもない物質のランダムな相互作用によって発生するという可能性は、竜巻がゴミ捨て場を襲った結果、偶然にジャンボ機747が組み立てられたというに等しい。

研究者のイツァク・ベントフは、『超意識の物理学入門』という著書で、こうした物事の考え方を「キリン症候群』と呼んでいる。異常に背が高く、首や足が長いキリンを始めて見てショックを受けた男の話に由来する言葉である。その男の現実感覚としては「ありえない」ものであったため、実際に目撃しているにもかかわらず、そうした動物が存在するという考えを拒絶した。

スタニスラフ・グロフは、約4000回のLSD集会、2万回のホロトロピック呼吸法の講習を行った。この呼吸法は、呼吸のテクニック、音、身体の運動、芸術的表現を組み合わせたものである。彼の講習に参加した人は、非日常的な覚醒状態に達することができる。動物や植物になる経験をした人は、そうした動植物の難解な遺伝子の情報や行動を詳細に語っており、これはのちに100%正しかったことが判明している。さらに原子や血球になる経験をした人、太陽の内部を見た人、子宮の中にいるのはどんな感じか、産道を通るのはどんな感じかを経験した人もいる。宇宙全体の意識になったという人もいた。

こうしたことが可能なのは、我々が宇宙であり、全ての細胞であり、原子だからである。必要なのは観測の視点を移すことだけで、そうすれば関心を向けたものになることができる。我々は全て、一つの無限なる全体が表出したものであり、離ればなれに分かれているという感覚は錯覚である。五感の監獄(時間の環)は、この我々が全て一つであるという理解から、我々を切り離す。実は、この分離の認識こそが、監獄である。五感を超えた変性意識状態になると、我々の意識は無限なるものとの接続を取り戻すことができ、無限なるものの表現としてのあらゆるもの(存在するもの全て、どんなものでも)を経験することができる。例えば海であるが、我々は、大西洋とか南シナ海とか、さまざまな名前をつけている。だが、こうした別々の海も同一の海水であり、我々もまた数えきれないほど多様に変装できる同一の無限の意識である。

海はどこにある?南アフリカの沿岸にぶつかっているだろうか?バリ島の砂浜に押し寄せているだろうか?「吠える40度」だろうか、ホルムズ海峡だろうか?そのすべてが海であり、我々はどこにいる?そして我々は何者なのか?我々は道端の花か?庭の木か?それとも太陽か、空か?窓に滴る雨水か、顔に当たる風か?その全てが我々である。我々は途切れのない一つのものの現実であり、我々の正体である無限なる一つのどんな側面であろうとも、我々には経験でき、我々は分離された一滴の水だと信じ込むように操られてきたが、本当は海なのだ。海の一部ではなく、海そのものである。一滴の水を海水に戻したならば、どこまでがその一滴で、どこからが海になるのだろうか?そんな分割はない。水滴は海になる。我々は単独で存在すると考えるから一滴になってしまったが、認識さえ変えて、海の中にポチャンと落ちれば、ほら・・

こうした知識は、悟りを開いた人々によって伝えられてきたが、公式の科学はその妥当性を否定してきた。そもそも主流の科学の権威は、我々を自由にする真実から我々を遠ざけてきた。古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間というものは、常に洞窟の中で壁に向かって座っている人のようだと言った。宇宙は、その壁に投影された影であり、その錯覚を人々は現実と誤認している。唯一の現実(真実)は、その影の存在を可能にしている「光」、つまり根源意識である。古代インドのヴェーダの研究でも同じことを指摘している。8世紀のヒンドゥー教の神秘主義者シャンカラは、「我々が語り、考えているこの宇宙全体は、ブラーフマン(無限なる意識)に他ならない。ブラーフマンはマヤ(錯覚)の領域を超越して存在している。他には何もない」と述べている。



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硬直した固定観念 [真実]


無限の認識を妨げる高密度(石頭)になるな。

形態は異なれど、全てはエネルギーである。日本の科学者の実験で、身体が輝くことが示されている。放出される光は、一日を通じ、時間の経過とともに増減するという。5人の健康な男性が実験に協力し、3時間おきに20分間、真っ暗闇の中でカメラの前に胸部をさらした。身体の輝きは、午前10時が最も弱く、午後4時に最強となり、以降徐々に弱まっていくことが判明した。このエネルギー放出量の変動は、体内時計の原理と連動していると考えられている。他の全てと同様に心身もエネルギーであり、自由に流れること(開かれた心)もできれば、高密度で重くなること(閉ざされた心)もある。恐怖と頑固な思い込みほど、エネルギーを高密度にするものはない。

脳が固定観念に合致するように現実を濾過し、固定観念が居座り続けることが、「脳地図」を描くと現れる。陰から世界の出来事を操ろうとしている人々は、我々のマインドを狙っている。「思い込み」を求めているのだ。宗教であろうと政治思想であろうと、彼らにとっては固定観念なら何でもよい。固定観念さえあれば、我々が大局的に物事を理解することが阻止できる。そして、固定観念と固定観念を対立させることで、分断して支配することも可能になる。開かれたマインドで「無限の認識」意識的に接続されることは、支配者にとって最悪の悪夢である。だから、そうしたマインドを開くような覚醒に対しては、ありとあらゆる手段で抑圧するような社会の仕組みを作ってきた。固定観念は、脳の中で神経細胞が結合する状態として実際に見ることができる。神経細胞は認知の硬直性を示す電気的な蜘蛛の巣を形成しており、神経細胞は思い込みを表す順番に従って発火する。こうしたネットワークが「脳地図」と言われており、「一緒に発火し、一緒に結線された神経細胞」という言葉に要約されている。

デーヴィッド・シャインバーグは、思考はエネルギーの渦であり、固定化・硬直化しうると述べている。この渦は、神経細胞ネットワークにつながった別レベルのプロセスであり、神経細胞が繰り返し同じ順序で発火するように固定化する。こうした硬直化した高密度の渦が、硬直的で柔軟性のない考え方、固定的な現実認識の正体ではないかとシャインバーグは言っている。

また、反対方向もあり、固定的な考え方が、高密度の渦と硬直的な神経細胞ネットワークを作り出す。こうしたネットワークと低振動のエネルギー場(同じ思い込みをさまざまな形で表現)こそが、経路を塞ぎ、我々を五感の現実につなぎ止め、「無限の認識」への意識的な接続を阻害しているのである。これが思い込みに合致するように脳が情報を選択して構築する電気的・振動的な濾過プロセスのレベルである。具体的に言えば、同じグラスを見ても、グラスが半分空であると思う人もいれば、半分残っていると思う人もいる。何事もポジティブに採られる人もいれば、ネガティブに捉える人もいる、ということだ。

同じ順序で神経細胞の発火を繰り返す「脳地図」は、コンピュータで実行されるソフトウェア・プログラムに似ている。プログラムのコードを書き換えたり、ディスクを入れ替えたりしなければ、同じことが繰り返される。大半の人は変更したりしない。だから認識や行動が限定され、行動が容易に予測できる。我々がそうした硬直的な思考から脱すると、神経細胞の蜘蛛の巣はパチンと切れてしまい、新しい現実に則した別の蜘蛛の巣が形成される。そして、濾過プロセスも新しくなり、以前はアクセスされなかった別の可能性の領域が解読される。我々は、この変化を、「人生を変えるような出来事」とか、今までなかったような展望(好機)が急に開けた感覚として経験する。だが、この「好機」は、急に出現したわけではなく、「すべての可能性」にあるエネルギーの密集体の中には常に存在していたのである。脳がそれを読み込み、物質界の経験として出力することを、個人の思い込みが阻害していただけなのだ。

硬直的な思考と低振動状態(特に恐怖)は、我々のエネルギー場を振動の遅い高密度状態に落し入れ、「無限の認識」に対するファイアウォールを築いてしまう。あまり「頭脳明晰」でない人のことを{英語で}なんて言う?「デンス」{高密度という意味の他に、鈍いという意味がある}だ。

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「私」とは何か [真実]


「私」とは何か



あなたはいったい何なのでしょうか。あなたは純粋な目覚めた意識です。これがあなたの本質です。それ以外はすべて、神からの分離を信じる考え方の現れです。それ以外の定義はすべて、ものには始まりと終わりがあるという考え方に、あなたを縛り付けるものです。それ以外の定義を信じると、そこから生まれた人間観や世界観にしたがって、人は、この地球の二極性を形成するプラスとマイナスの両極のあいだを、情容赦なく行ったり来たりさせられることになります。

人は無限の存在です。すべての偉大な覚醒者は繰り返し、限界というものは存在しないと述べます。あなたに限界を設けたのはあなた自身です。限界は狭い心から生まれ、神から分離した意識が生み出します。限界には始まりと終わりがあります。始まりや終わりがあるものはどれも、あなたの本質ではありません。確かに、人間が今この地球界にいるのは、一時的に神との分離意識を現象化するためです。ところが人は、神から分離という幻影に支配される思考の世界にはまり込んでしまい、そこから抜け出せなくなっています。あなたのなかやまわりで起こっている唯一の事、この地球全体を通して起こっている唯一のこと、この創造界のあらゆるものに起こっている唯一のこと、それは「エネルギーの動き」です。それだけなのです。

一瞬立ち止まって、自分の考えていることを観察してみると、自分の狭い心のつまらなさに行き当たります。分離意識のなかで生きて行くためには、大部分の時間、自分が何を考えているかにまったく気づかないでいる必要があります。家を出て、目的地と反対方角のスーパーにいる自分を発見したりすることがあるでしょう。人と話している最中に、話をいったんやめて、自分が何を言ったか考えてごらんなさい。大抵の人は思い出せません。

思考には永続性がない---そのほとんどはつまらないものだ---と知っているので、自分の思考のなかに意識がないのです。ここで私は、アインシュタインが提起したような偉大な理論をも、つまらないものだとあえて言っているのでしょうか。そう、自分の本質を感じることに比べたら、どんな偉大な思想もすべてつまらないものです。あなた方は、たえまなく他人や自分をあれこれ批判したり裁いたりするという、つまらない思考パターンにとらわれています。このたえまない価値判断は果てしなく続き、他人に比べて自分はどうか、常に何らかの評価をくだそうとしています。ですから、このつまらない思考の産物が、限りなく生まれては消えるのが生きることのすべてだとしたら、このまま生きて行く価値はないのではないかと感じて、人はイライラするのです。そう気づくと、まるで牢獄に閉じ込められたような気がしてきます。このような見方と、「あなたは無限の存在だ」という言葉とを、どのように両立させることができるでしょうか。

あなた方に唯一の解決策を教えることはできません。道はたくさんあるからです。何にも増して、自分を制限するものから自由になりたいという想いに、心を激しく燃やすことのできる道が見つかったら、どうか全力で傾けてその道を歩んでください。自由への道は人間の数だけあります。人は生きてきた道はそれぞれですし、意識はそれぞれ独自の人生経験を持っています。すべての人は、自分がどこへ行こうとしているのか、ちゃんと知っています。

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恐怖心 [真実]



恐怖心が、高い振動エネルギーの高度知覚をブチ壊す



世の中の操作者が必死になってやっていることが、私たちに繰り返し繰り返し恐怖を与える作戦です。せっかくのコミュニケーションのチャンネルをすぐ閉じさせるのは、コンピューターウィルスのような強烈な思い込み、恐怖心です。恐怖心があると「外側」に通じるチャクラのチャンネルが閉じてしまう。行く手にファイアーウォール(防火壁)が立ちはだかり、私たちのエネルギー場の密度が高くなって、高度な知覚という高い振動エネルギーから完全に切り離されてしまう。

今こそ恐怖を筆頭とした、低振動で密度の高い固定的な思考、思い込みを抜け出し、硬直したニューロンネットワークを引きちぎり、新しい現実に合わせた網を作るべきなのです。それにはすべての可能性をとことん解読し、受け入れる。つまり、「今」の知覚だけ集中して、これこれをやる「つもり(未来にやるとは、永遠に先延ばしすること)」ではなく、「今やっている」と口にすることです。大望は、寝て待たず、「今」実現しているのだと力強く知覚する要諦です。

そこで避けるべきことに触れます。自分のことを、人種、国籍、宗教的アイデンティティという固定されたレッテル張りをしないことです。こんなのは、遺伝子というソフトウェアないしハードウェアによる血統の中で、他者から受けついだコンピュータープログラムです。もうこんな思い込みをダウンロードするのはやめにする。断固としてこんなプログラムは拒否して、「無限の認識」を導入し、自分独自の知覚の道を行くべきです。私たちは人間でなく、無限の認識であってすべての可能性なのです。イギリス人、アメリカ人、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒といったことは、私たちが何者ではなく、私たちの無限の認識が経験しているものに過ぎない。そうしたプログラムを生き、他者であることを楽しむ分には決して悪いことではない。しかし、それを自分が何者であるかということと混同してはいけない。それをすると問題が生じる。部屋のドアが閉じ、文字通り、細胞のドアやゲートが閉じてしまうのです。

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死とは肉体という幻想から解放され、生まれ変わること。 [真実]


死とは肉体という幻想から解放され、生まれ変わること。

男か女かは、ただ単に体内の電気化学的な(男性ホルモンのテストステロンか女性ホルモンのエストロゲン)ソフトウェアプログラムの表出に過ぎない。「無限の認識」のレベルでは、人は男でも女でもなく両者が調和した存在です。自分が男だとか女だとかいうことは、自分をコンピューターレベルに落とし込んでいることなのです。そうしたことは、自分が何者かというのではなく、自分が「経験している」という点が大事なのです。

肉体コンピューターを介して私たちの「無限の認識」は、この現実を体験しています。低レベルの認識は、ついコンピューターを自己識別だと思い込んでしまう。しかし、コンピューターが活動を停止して肉体が死ぬと私たちの認識は幻想から解き放たれ、本来の自分を取り戻すプロセスが始まります。けれど、せっかく肉体から解放された真のアイデンティティに気づかないで、いまだ肉体という「自己の残存イメージ」にこだわり、地面すれすれの、この世に近いところで踊る幽霊として漂う例もあります。

死は究極の恐怖だと洗脳し続けてきたのは宗教です。死の恐怖があるために、「大いなる秘密」を暴けるという時にも人は沈黙する。医者や聖職者の奴隷となってでも生き続けたい、永遠の地獄など行きたくないと願う。こんな心配は無用です。永遠の命を探し求める必要などありません。なぜならそんなものはすでに持っているからです。問うべきは、どんな種類の永遠の命かということです。死とは、実はある命から別の命への継ぎ目のない移行なのです。死とは肉体コンピューターからの撤退に過ぎません。私たちは、その後も別の領域の現実の中で存在を続けるのです。限りある肉体という幻想から解き放たれ、生まれ変わるだけなのです。私たちは「無限の全体」なのですから、この領域から去ることは決してないし、分離という意識も、この混乱した世界における幻想の一部でしかないのです。

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本当の自分 [真実]



現実とは幻想である。だが、なかなか消えようとしない。・・・人間とは宇宙と呼ばれる全体の一部であり、それが時間と空間で区切られているに過ぎない。人は自身の思考・感情を、それ以外と分けて経験するが、それは自己の意識が作り出す、ある種の視覚的な錯覚に過ぎない。こういった錯覚は一種の牢獄のようなもので、個人的な欲求や、すぐ近くにいるごく少数の人々への愛情を制限する。私たちの使命は自身をこの牢獄から解き放つこと、そのため思いやりの輪を広げ、生きとし生けるものと自然全体の美しさを受け入れることでなければならない。

あなた自身はあらゆるもの、自覚されたすべてなのです。
こんな喩えはとってもわかりやすい。水の一滴は分離の感覚です。他と切り離された「個」としての私です。その一滴を海に落とせば、どこから海で、どれが「自分」である滴なのか区別がつきません。始まりも終わりもない。αもΩもない。すべては一つ。あるのは「無限の私」だけ。荒れ狂っていても、凪いでいても海は海。同じワンネス(全一)です。私たちは常に海であり、常に「無限の認識」なのです。ただひとたび自分が何者であるかを忘れてしまうと、混乱して分離の感覚に陥り、孤立した一滴になってしまう。その感覚が心の中に作り出す小さなレンズを通して現実を見ると、世界はとても狂って貧相なものに知覚してしまう。

せっかく無限大の大海(認識)なのに自分を小さくちっぽけなものにしているのは、外からの働きかけが強力だということもあります。私たちを統一体ではなく一部品であると知覚させている元凶は、私たちの現実感覚を大規模に操作する者です。肉体という名の乗り物を「私」だと認識するように誘導しているのです。本来の「私」は、「神」と呼んでもおかしくない存在なのに、まやかしの肉体コンピュータの中に飼いならされて、いともたやすく監禁されてしまっているのです。

私たちは本来の自分で考えるより、肉体に考えさせています。肉体=自分ではないのに、その幻想の虜になっています。すべて肉体コンピュータの思考や感情なのに、それを自分だと信じ込んでしまっている。アインシュタインも言っています。「人間の真価は、コンピュータの自己からどれだけ解放されたかによって決まる」

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