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仮想現実ホログラム


我々の脳内に築かれたものが、どうして「物質」として立体的に硬く見えるのか?これは単純な理由だ。店で売っているが、平面にもかかわらず立体的に見えるホログラム画像を見たことがあるだろう。それと同じ原理で我々も現実を構築している。ホログラムは、実際には三次元(立体)ではないが、そのように見えるだけであり、我々の現実もそうである。ホログラムは、二次元の情報を三次元の錯覚に変換したものであり、それが脳が行っていることである。売っているホログラムは、写真のフィルムに向けた同じレーザー光線を二つに分け、それを方向調整することで作ってある。

一つ(基準ビーム)は、半透明の鏡を通って、フィルムへと直行する。もう一つ(作業ビーム)は、屈折され、ホログラム的に撮影されるよう対象物にぶつかった後、写真フィルムに向かい、そこで基準ビームと衝突する。これにより、「干渉縞」と呼ばれるものがフィルム上に生成される。ちょうど二つの意思を池に投げ込むと、二つの波紋が衝突し、干渉模様ができるようなものである。水にできる模様は、投げた石が振動もしくは波形となって現れたようなものであり、進入地点と進入速度を示している。フィルムにできたレーザー光線の模様も同じである。それは撮影の対象物を振動または波で表現した肖像である。波の模様は、指紋のように乱雑な線の集まりのように見えるが、レーザー光線がフィルムに当たると、立体的に見える画像が突如として出現する。

ホログラムは、この「物質」世界と同じように固体に見えるが、実際には手を伸ばせば通り抜けてしまう。固体のように見えるのは錯覚である。今述べたホログラム技術はすでに時代遅れになりつつあり、新しい形態のホログラムが急速に登場している。それがデジタル・ホログラムだ。コンピュータで数学とピクセル(画素)を使って製作するもので、ホログラム画像をパソコンで印刷できるようになる。ホログラムのテレビ番組や映画も製作可能になる。その将来性についてインターネットにこのような記事がある。

新型のホログラムは、クレジットカードにあるような単純で小さな3色(黄・緑・赤)の3D画像ではない。容量制限なしのフル・カラー高精細画像がデジタル形式で可能にあった。そして、実にリアルだ。あまりにも本物に見えるため、フォード社がホログラムを使って自動車のコンセプト・モデルを展示したとき、「人々は怖くなって足を踏み入れるのをためらった」という。ホログラムの自動車が本当に実在したと思ったのだ。

これが、実にリアルなホログラムの「世界」を脳が構築する仕組みである。目からの情報を利用し、デジタルのホログラム(物質世界)を築いているのは脳である。さらに、受信した信号に符号化された情報を読み取ることで、奥行きや距離といった錯覚も付加している。コンピュータ・ゲームの距離や深度がひとつの小さなディスクにあるのと同様に、遠くに見えるものも、実際には頭の中にある。我々はよく意味も理解せず、新しい流行語を繰り返し使うことが多い。辞書で調べてみると、「デジタル」という言葉は以下のように定義されている。

数字で表現されたもの(特にコンピュータで利用する目的で)。数字による解釈を利用したり、与えること。一連の数値でデータを示すこと。数字を持つこと。数値で表現された情報を、読み書き・保存できる装置に関するコンピュータ科学。

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目覚めた意識 [願望実現]

地球の多くの人たちは、とにかくその日一日を生きるのに精いっぱいで、ただ意識が絶えないように食べ物を探すことのためだけに、信じられないほどの苦労をしています。私たちはそのような人生を送ってはいません。悩みのほとんどは、地球の大多数の人の悩みと比べると、それほど深刻ではありません。だからといって、そのことで後ろめたさを感じる必要はありません。そういう状況にあるということは、感謝をするだけの理由があるということです。そして、自分はなぜこうした機会を与えられたのか、それに対する自分の責任は何なのかと、自分に問う必要があるということです。光と純粋な意識の世界に、できるだけ深く入ってください。あなたがそうすることによって、地球全体がその恩恵を受けます。はっきり言いましょう。地球の人々は、あなたの助けを必要としています。 目覚めた意識を持ち、自分の光を見つけ、自分の愛を見つけ、自分の悟りを見つけ、自分が何なのかを見つけてください。あなたはそうするのに最も適した環境にいます。自分のためにはそうすることができないというのでしたら、ほかの人のためにそうしてください。みんな、あなたの助けを必要としています。テレビのニュースをちょっとでも見れば、意味がわかることでしょう。後ろめたさを感じたりして、ムダなエネルギーを使わないでください。その代りに、「ありがとう。これを使って、この地球にできるだけ多くの愛と光と思いやりと理解をもたらす努力をします」と言ってっください。目覚めつつある人にとっては、それがなすべきことです。そのほかのことはすべて、それほど重要ではありません。 神のおかげとその人自身の努力の結果、真の理解に達しかけている人や、自分が何なのかを本当に理解する一歩手前に来ている人がいます。そこで立ち止まらないでください。日常生活のゴタゴタに埋もれてしまわないでください。つまらない問題に巻き込まれないでください。大事なことは、自分の喜びと愛と光を増し、歓喜に躍動することです。それが、自分のやるべきことなのだという点を、忘れないようにしてください。あなたがこの地球で生きていくなかで、自分の生活に喜びをもたらせばもたらすほど、そんなことが可能だということさえ知らない人々を助けることになります。 ただの一瞬たりとも罪の意識を感じたりしないでください。まったくの時間の無駄です。それはエゴのささやきです。自分がここにいるのは、地球界で愛するために、あなた自身の本質である愛を体験するために存在しているのだ、ということを思い出してもらうためです。あなたがここにいるのは、自分のなかやまわりで純粋な目覚めた意識の光を爆発させるためです。あなたがここにいるのは、すべての悩みや苦しみは幻影であると知るためであり、あなたがそれを知ることによって、何百万何千万という人々を助けることになります。ですから、人びとを助けたいと思うのなら、自分自身の光を見つけ、自分自身を見つけ、自分の神を見つけてください。そして、自由に大きく羽ばたいてください。

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仮想現実・マトリックス [真実]

仮想現実領域を超越すれば時間も空間もない



「空間」は存在しない。科学者たちは、原子を構成する粒子が、驚くべき「距離」の離れた粒子と互いに一瞬のうちに交信することが理解できない。空間など存在しないのに、空間という前提を置いて彼らは考えているのだ。それは一滴の水と海のようなものである。粒子というものは、我々が錯覚として認知するだけで、存在しない。全ての粒子は、同じ一つの粒子である。従って、複数存在しないのであるから、そもそも「互いに」交信する必要がない。そして、ある場所から別の場所へと移動することもない。空間など存在しないし、複数の「空間」もないからだ。

時間と空間という錯覚は、感覚器官を通じて受信した情報を脳が読み込む方法によって生じる。アインシュタインが言ったように、宇宙は「時間と空間で限られている」が、それは仮想現実を創造した者が、そのように仮想現実という構造物をプログラムしたからである。仮想現実の領域を超越してしまえば、時間も空間も存在しない。時間と空間の認知は、ソフトウェア・プログラムの一部に過ぎず、我々はそれを時間と空間に思えるような経験へと解読している。これが「自然の法則」の正体である。この仮想現実というゲームの創造者が、それが誰であれ、そうであるべきと決めたのだ。今日、実にたくさんの人々が遊んでいるコンピュータ・ゲームを制作しているプログラマーと同じ原理である。ゲームのプログラマーたちが、どんなルールでどのような制約を設けるかを決める。だから、ゲームによってルールもさまざまである。

科学者たちも、他の次元(並行宇宙)では、物理法則もずいぶん違ったものになりうることを発見している。「並行宇宙」とは他の仮想現実であり、異なる周波数帯を振動的に跳躍できれば、我々はそうした並行宇宙と相互交流することも可能であり、向こう側から我々に働きかけることも可能である。いみじくも「理想郷」という言葉は、「存在しない場所」という意味であり、これは時空という錯覚を超越した世界である。昔の歌に「あなたはそこらじゅうにいるし、どこにもいない。それがあなたの居場所」とある通りだ。無限の広がりも、針の先の点も、全ては一つの大海であるから、実は同じである。詩人のウィリアム・ブレイクは、時間と空間の真実を捉えてこう書いている。

一粒の砂に世界を見る
野の花に天国を見る
手のひらに無限をつかみ
一刻に永遠がこもる


映画『マトリックス』では、人類が錯覚の現実を経験するよう騙されているというテーマが繰り返し描かれているが、その点は実に正確である。だが、真実から離れているのは、マトリックスの外側には、本当の固形の世界があると、ほのめかしているところである。これ以外にも、我々が仮想現実の宇宙に住んでいることを示唆する作品の多くは、仮想現実の向こうに本当の物質世界があるとしている。そんなことはない。創造には、仮想現実の世界(複数)、そして、根源意識しかない。「物質」は存在しない。

我々は遥かに洗練されたバージョンのコンピュータ・ゲームを体験している。ただし、大半の「人間」は、ゲームを楽しんでいるのではなく、ゲームに翻弄されている。マインド、「知能」、爬虫類脳を通じて、ゲームに遊ばれているのである。遺伝子の操作と情報の抑圧により、本来ならば根源意識の遊び場であるはずの創造物が、認知の監獄に変貌してしまったのである。

仮想現実ゲームそのものは、善でも悪でもなく、正しいとか誤っているとかもない。経験するための乗り物(道具)に過ぎない。操作者はゲームの大部分から人類を隔離し、遺伝子操作などの手段を使って介入し、極めて狭い周波数帯域(可視光線)へと我々の認知を閉じ込めたのである。操作者の陰謀の真髄は、我々を無知なままにすること、我々が何者なのか、我々がどこにいるのか、我々はどんな性質の現実を体験しているのかを、我々が知らないままにしておくことである。この物質的に見える世界だけに我々の関心を向けさせ、我々は肉体であり、名前であり、職業であり、所得階層であると信じるように計画している。

だが、我々はそんなものではない。我々は根源意識である。我々が「生産」と呼ぶ期間だけ、仮想現実の宇宙を体験している根源意識である。肉体コンピュータは、この現実と相互作用するための乗り物であり、我々の実体ではない。インターネットを使いたいと思っても、それだけではできない。インターネットという集合的現実を経験するには、データが流れる導管が必要である。根源意識も同じである。どんな現実と交流する場合であっても、その現実の周波数帯の範囲内で共振していなければ、相互に作用しようとする二つのラジオ局・テレビ局のようなものである。異なる波長にある限り、それは不可能だ。

根源意識は、この現実(密度)に直接作用することは不可能であり、そのために宇宙飛行士が宇宙服を着るような感じで、人間の肉体コンピュータを「着る」必要がある。もっと正確に表現すると、根源意識が経験したいと思っている「世界」の周波数帯域の範囲内で共振する遺伝子的な「望遠鏡」を通じて、根源意識は眺めているのである。わたしの根源意識がパソコンのキーボードを叩くことができているのは、そのためである。

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変性意識状態 [真実]


あなたは全て



精神活性物質への関心は、LSDのような薬物の使用として60年代に爆発的に高まったが、その大部分がこの現実からの逃避であり、新たな現実への橋渡しにはならなかった。わたしはこの現実が、監獄から楽園に変わっていくのを見たい。

変性意識状態の経験は、我々が相手にしている策略を理解するのに役立つし、この観点からLSDなどの薬物の効果を研究してきた人々は、それによって現実とは何かを深く学ぶことができたはずだ。その一人が、『ホロトロピック・マインド』の著者でジョン・ホプキンス大学の医学部教授だったスタニスラフ・グロフである。彼は国際トランスパーソナル協会を設立し、人々を変性意識状態にする「ホロトロピック呼吸法」という手法を開発した。

グログは、医療への応用が可能かどうか追究するため、1950年代にLSDの作用を研究するようになるまでは、頑なな物質主義者・無神論者だった。それから彼は何十年も研究を続けることになった。最初にLSDを経験したとき、彼自らが「自分自身の潜在意識との衝撃的な出会い」と表現する経験をした。そして即座に、学校や大学で教えられている。科学界の権威の揺るぎない「真実」が空想に過ぎないことに気づいた。

既存の科学では、有機物と生命は、ただ単に原子と分子がランダムに相互作用することにより、原始の海から化学的に分泌して成長したと考えている。単なる偶然と「自然選択」により、物質が生物細胞へと組成していき、細胞が中枢神経系を持つ複雑な多細胞生物へと組成していったと論じている。そして、こうした説明とともに、脳で発生している物質的プロセスの副産物として意識が生じたという仮説が、西洋の世界観の最も重要な形而上的見解になっている。現代の科学では、創造的知性とあらゆるレベルの現実との間に深い相互作用があることが明らかになっており、こうした単純な宇宙のイメージは、いよいよ受け容れがたくなっている。人間の意識や無限なまでに複雑な宇宙が、生き物でもない物質のランダムな相互作用によって発生するという可能性は、竜巻がゴミ捨て場を襲った結果、偶然にジャンボ機747が組み立てられたというに等しい。

研究者のイツァク・ベントフは、『超意識の物理学入門』という著書で、こうした物事の考え方を「キリン症候群』と呼んでいる。異常に背が高く、首や足が長いキリンを始めて見てショックを受けた男の話に由来する言葉である。その男の現実感覚としては「ありえない」ものであったため、実際に目撃しているにもかかわらず、そうした動物が存在するという考えを拒絶した。

スタニスラフ・グロフは、約4000回のLSD集会、2万回のホロトロピック呼吸法の講習を行った。この呼吸法は、呼吸のテクニック、音、身体の運動、芸術的表現を組み合わせたものである。彼の講習に参加した人は、非日常的な覚醒状態に達することができる。動物や植物になる経験をした人は、そうした動植物の難解な遺伝子の情報や行動を詳細に語っており、これはのちに100%正しかったことが判明している。さらに原子や血球になる経験をした人、太陽の内部を見た人、子宮の中にいるのはどんな感じか、産道を通るのはどんな感じかを経験した人もいる。宇宙全体の意識になったという人もいた。

こうしたことが可能なのは、我々が宇宙であり、全ての細胞であり、原子だからである。必要なのは観測の視点を移すことだけで、そうすれば関心を向けたものになることができる。我々は全て、一つの無限なる全体が表出したものであり、離ればなれに分かれているという感覚は錯覚である。五感の監獄(時間の環)は、この我々が全て一つであるという理解から、我々を切り離す。実は、この分離の認識こそが、監獄である。五感を超えた変性意識状態になると、我々の意識は無限なるものとの接続を取り戻すことができ、無限なるものの表現としてのあらゆるもの(存在するもの全て、どんなものでも)を経験することができる。例えば海であるが、我々は、大西洋とか南シナ海とか、さまざまな名前をつけている。だが、こうした別々の海も同一の海水であり、我々もまた数えきれないほど多様に変装できる同一の無限の意識である。

海はどこにある?南アフリカの沿岸にぶつかっているだろうか?バリ島の砂浜に押し寄せているだろうか?「吠える40度」だろうか、ホルムズ海峡だろうか?そのすべてが海であり、我々はどこにいる?そして我々は何者なのか?我々は道端の花か?庭の木か?それとも太陽か、空か?窓に滴る雨水か、顔に当たる風か?その全てが我々である。我々は途切れのない一つのものの現実であり、我々の正体である無限なる一つのどんな側面であろうとも、我々には経験でき、我々は分離された一滴の水だと信じ込むように操られてきたが、本当は海なのだ。海の一部ではなく、海そのものである。一滴の水を海水に戻したならば、どこまでがその一滴で、どこからが海になるのだろうか?そんな分割はない。水滴は海になる。我々は単独で存在すると考えるから一滴になってしまったが、認識さえ変えて、海の中にポチャンと落ちれば、ほら・・

こうした知識は、悟りを開いた人々によって伝えられてきたが、公式の科学はその妥当性を否定してきた。そもそも主流の科学の権威は、我々を自由にする真実から我々を遠ざけてきた。古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間というものは、常に洞窟の中で壁に向かって座っている人のようだと言った。宇宙は、その壁に投影された影であり、その錯覚を人々は現実と誤認している。唯一の現実(真実)は、その影の存在を可能にしている「光」、つまり根源意識である。古代インドのヴェーダの研究でも同じことを指摘している。8世紀のヒンドゥー教の神秘主義者シャンカラは、「我々が語り、考えているこの宇宙全体は、ブラーフマン(無限なる意識)に他ならない。ブラーフマンはマヤ(錯覚)の領域を超越して存在している。他には何もない」と述べている。



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硬直した固定観念 [真実]


無限の認識を妨げる高密度(石頭)になるな。

形態は異なれど、全てはエネルギーである。日本の科学者の実験で、身体が輝くことが示されている。放出される光は、一日を通じ、時間の経過とともに増減するという。5人の健康な男性が実験に協力し、3時間おきに20分間、真っ暗闇の中でカメラの前に胸部をさらした。身体の輝きは、午前10時が最も弱く、午後4時に最強となり、以降徐々に弱まっていくことが判明した。このエネルギー放出量の変動は、体内時計の原理と連動していると考えられている。他の全てと同様に心身もエネルギーであり、自由に流れること(開かれた心)もできれば、高密度で重くなること(閉ざされた心)もある。恐怖と頑固な思い込みほど、エネルギーを高密度にするものはない。

脳が固定観念に合致するように現実を濾過し、固定観念が居座り続けることが、「脳地図」を描くと現れる。陰から世界の出来事を操ろうとしている人々は、我々のマインドを狙っている。「思い込み」を求めているのだ。宗教であろうと政治思想であろうと、彼らにとっては固定観念なら何でもよい。固定観念さえあれば、我々が大局的に物事を理解することが阻止できる。そして、固定観念と固定観念を対立させることで、分断して支配することも可能になる。開かれたマインドで「無限の認識」意識的に接続されることは、支配者にとって最悪の悪夢である。だから、そうしたマインドを開くような覚醒に対しては、ありとあらゆる手段で抑圧するような社会の仕組みを作ってきた。固定観念は、脳の中で神経細胞が結合する状態として実際に見ることができる。神経細胞は認知の硬直性を示す電気的な蜘蛛の巣を形成しており、神経細胞は思い込みを表す順番に従って発火する。こうしたネットワークが「脳地図」と言われており、「一緒に発火し、一緒に結線された神経細胞」という言葉に要約されている。

デーヴィッド・シャインバーグは、思考はエネルギーの渦であり、固定化・硬直化しうると述べている。この渦は、神経細胞ネットワークにつながった別レベルのプロセスであり、神経細胞が繰り返し同じ順序で発火するように固定化する。こうした硬直化した高密度の渦が、硬直的で柔軟性のない考え方、固定的な現実認識の正体ではないかとシャインバーグは言っている。

また、反対方向もあり、固定的な考え方が、高密度の渦と硬直的な神経細胞ネットワークを作り出す。こうしたネットワークと低振動のエネルギー場(同じ思い込みをさまざまな形で表現)こそが、経路を塞ぎ、我々を五感の現実につなぎ止め、「無限の認識」への意識的な接続を阻害しているのである。これが思い込みに合致するように脳が情報を選択して構築する電気的・振動的な濾過プロセスのレベルである。具体的に言えば、同じグラスを見ても、グラスが半分空であると思う人もいれば、半分残っていると思う人もいる。何事もポジティブに採られる人もいれば、ネガティブに捉える人もいる、ということだ。

同じ順序で神経細胞の発火を繰り返す「脳地図」は、コンピュータで実行されるソフトウェア・プログラムに似ている。プログラムのコードを書き換えたり、ディスクを入れ替えたりしなければ、同じことが繰り返される。大半の人は変更したりしない。だから認識や行動が限定され、行動が容易に予測できる。我々がそうした硬直的な思考から脱すると、神経細胞の蜘蛛の巣はパチンと切れてしまい、新しい現実に則した別の蜘蛛の巣が形成される。そして、濾過プロセスも新しくなり、以前はアクセスされなかった別の可能性の領域が解読される。我々は、この変化を、「人生を変えるような出来事」とか、今までなかったような展望(好機)が急に開けた感覚として経験する。だが、この「好機」は、急に出現したわけではなく、「すべての可能性」にあるエネルギーの密集体の中には常に存在していたのである。脳がそれを読み込み、物質界の経験として出力することを、個人の思い込みが阻害していただけなのだ。

硬直的な思考と低振動状態(特に恐怖)は、我々のエネルギー場を振動の遅い高密度状態に落し入れ、「無限の認識」に対するファイアウォールを築いてしまう。あまり「頭脳明晰」でない人のことを{英語で}なんて言う?「デンス」{高密度という意味の他に、鈍いという意味がある}だ。

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「私」とは何か [真実]


「私」とは何か



あなたはいったい何なのでしょうか。あなたは純粋な目覚めた意識です。これがあなたの本質です。それ以外はすべて、神からの分離を信じる考え方の現れです。それ以外の定義はすべて、ものには始まりと終わりがあるという考え方に、あなたを縛り付けるものです。それ以外の定義を信じると、そこから生まれた人間観や世界観にしたがって、人は、この地球の二極性を形成するプラスとマイナスの両極のあいだを、情容赦なく行ったり来たりさせられることになります。

人は無限の存在です。すべての偉大な覚醒者は繰り返し、限界というものは存在しないと述べます。あなたに限界を設けたのはあなた自身です。限界は狭い心から生まれ、神から分離した意識が生み出します。限界には始まりと終わりがあります。始まりや終わりがあるものはどれも、あなたの本質ではありません。確かに、人間が今この地球界にいるのは、一時的に神との分離意識を現象化するためです。ところが人は、神から分離という幻影に支配される思考の世界にはまり込んでしまい、そこから抜け出せなくなっています。あなたのなかやまわりで起こっている唯一の事、この地球全体を通して起こっている唯一のこと、この創造界のあらゆるものに起こっている唯一のこと、それは「エネルギーの動き」です。それだけなのです。

一瞬立ち止まって、自分の考えていることを観察してみると、自分の狭い心のつまらなさに行き当たります。分離意識のなかで生きて行くためには、大部分の時間、自分が何を考えているかにまったく気づかないでいる必要があります。家を出て、目的地と反対方角のスーパーにいる自分を発見したりすることがあるでしょう。人と話している最中に、話をいったんやめて、自分が何を言ったか考えてごらんなさい。大抵の人は思い出せません。

思考には永続性がない---そのほとんどはつまらないものだ---と知っているので、自分の思考のなかに意識がないのです。ここで私は、アインシュタインが提起したような偉大な理論をも、つまらないものだとあえて言っているのでしょうか。そう、自分の本質を感じることに比べたら、どんな偉大な思想もすべてつまらないものです。あなた方は、たえまなく他人や自分をあれこれ批判したり裁いたりするという、つまらない思考パターンにとらわれています。このたえまない価値判断は果てしなく続き、他人に比べて自分はどうか、常に何らかの評価をくだそうとしています。ですから、このつまらない思考の産物が、限りなく生まれては消えるのが生きることのすべてだとしたら、このまま生きて行く価値はないのではないかと感じて、人はイライラするのです。そう気づくと、まるで牢獄に閉じ込められたような気がしてきます。このような見方と、「あなたは無限の存在だ」という言葉とを、どのように両立させることができるでしょうか。

あなた方に唯一の解決策を教えることはできません。道はたくさんあるからです。何にも増して、自分を制限するものから自由になりたいという想いに、心を激しく燃やすことのできる道が見つかったら、どうか全力で傾けてその道を歩んでください。自由への道は人間の数だけあります。人は生きてきた道はそれぞれですし、意識はそれぞれ独自の人生経験を持っています。すべての人は、自分がどこへ行こうとしているのか、ちゃんと知っています。

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恐怖心 [真実]



恐怖心が、高い振動エネルギーの高度知覚をブチ壊す



世の中の操作者が必死になってやっていることが、私たちに繰り返し繰り返し恐怖を与える作戦です。せっかくのコミュニケーションのチャンネルをすぐ閉じさせるのは、コンピューターウィルスのような強烈な思い込み、恐怖心です。恐怖心があると「外側」に通じるチャクラのチャンネルが閉じてしまう。行く手にファイアーウォール(防火壁)が立ちはだかり、私たちのエネルギー場の密度が高くなって、高度な知覚という高い振動エネルギーから完全に切り離されてしまう。

今こそ恐怖を筆頭とした、低振動で密度の高い固定的な思考、思い込みを抜け出し、硬直したニューロンネットワークを引きちぎり、新しい現実に合わせた網を作るべきなのです。それにはすべての可能性をとことん解読し、受け入れる。つまり、「今」の知覚だけ集中して、これこれをやる「つもり(未来にやるとは、永遠に先延ばしすること)」ではなく、「今やっている」と口にすることです。大望は、寝て待たず、「今」実現しているのだと力強く知覚する要諦です。

そこで避けるべきことに触れます。自分のことを、人種、国籍、宗教的アイデンティティという固定されたレッテル張りをしないことです。こんなのは、遺伝子というソフトウェアないしハードウェアによる血統の中で、他者から受けついだコンピュータープログラムです。もうこんな思い込みをダウンロードするのはやめにする。断固としてこんなプログラムは拒否して、「無限の認識」を導入し、自分独自の知覚の道を行くべきです。私たちは人間でなく、無限の認識であってすべての可能性なのです。イギリス人、アメリカ人、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒といったことは、私たちが何者ではなく、私たちの無限の認識が経験しているものに過ぎない。そうしたプログラムを生き、他者であることを楽しむ分には決して悪いことではない。しかし、それを自分が何者であるかということと混同してはいけない。それをすると問題が生じる。部屋のドアが閉じ、文字通り、細胞のドアやゲートが閉じてしまうのです。

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死とは肉体という幻想から解放され、生まれ変わること。 [真実]


死とは肉体という幻想から解放され、生まれ変わること。

男か女かは、ただ単に体内の電気化学的な(男性ホルモンのテストステロンか女性ホルモンのエストロゲン)ソフトウェアプログラムの表出に過ぎない。「無限の認識」のレベルでは、人は男でも女でもなく両者が調和した存在です。自分が男だとか女だとかいうことは、自分をコンピューターレベルに落とし込んでいることなのです。そうしたことは、自分が何者かというのではなく、自分が「経験している」という点が大事なのです。

肉体コンピューターを介して私たちの「無限の認識」は、この現実を体験しています。低レベルの認識は、ついコンピューターを自己識別だと思い込んでしまう。しかし、コンピューターが活動を停止して肉体が死ぬと私たちの認識は幻想から解き放たれ、本来の自分を取り戻すプロセスが始まります。けれど、せっかく肉体から解放された真のアイデンティティに気づかないで、いまだ肉体という「自己の残存イメージ」にこだわり、地面すれすれの、この世に近いところで踊る幽霊として漂う例もあります。

死は究極の恐怖だと洗脳し続けてきたのは宗教です。死の恐怖があるために、「大いなる秘密」を暴けるという時にも人は沈黙する。医者や聖職者の奴隷となってでも生き続けたい、永遠の地獄など行きたくないと願う。こんな心配は無用です。永遠の命を探し求める必要などありません。なぜならそんなものはすでに持っているからです。問うべきは、どんな種類の永遠の命かということです。死とは、実はある命から別の命への継ぎ目のない移行なのです。死とは肉体コンピューターからの撤退に過ぎません。私たちは、その後も別の領域の現実の中で存在を続けるのです。限りある肉体という幻想から解き放たれ、生まれ変わるだけなのです。私たちは「無限の全体」なのですから、この領域から去ることは決してないし、分離という意識も、この混乱した世界における幻想の一部でしかないのです。

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本当の自分 [真実]



現実とは幻想である。だが、なかなか消えようとしない。・・・人間とは宇宙と呼ばれる全体の一部であり、それが時間と空間で区切られているに過ぎない。人は自身の思考・感情を、それ以外と分けて経験するが、それは自己の意識が作り出す、ある種の視覚的な錯覚に過ぎない。こういった錯覚は一種の牢獄のようなもので、個人的な欲求や、すぐ近くにいるごく少数の人々への愛情を制限する。私たちの使命は自身をこの牢獄から解き放つこと、そのため思いやりの輪を広げ、生きとし生けるものと自然全体の美しさを受け入れることでなければならない。

あなた自身はあらゆるもの、自覚されたすべてなのです。
こんな喩えはとってもわかりやすい。水の一滴は分離の感覚です。他と切り離された「個」としての私です。その一滴を海に落とせば、どこから海で、どれが「自分」である滴なのか区別がつきません。始まりも終わりもない。αもΩもない。すべては一つ。あるのは「無限の私」だけ。荒れ狂っていても、凪いでいても海は海。同じワンネス(全一)です。私たちは常に海であり、常に「無限の認識」なのです。ただひとたび自分が何者であるかを忘れてしまうと、混乱して分離の感覚に陥り、孤立した一滴になってしまう。その感覚が心の中に作り出す小さなレンズを通して現実を見ると、世界はとても狂って貧相なものに知覚してしまう。

せっかく無限大の大海(認識)なのに自分を小さくちっぽけなものにしているのは、外からの働きかけが強力だということもあります。私たちを統一体ではなく一部品であると知覚させている元凶は、私たちの現実感覚を大規模に操作する者です。肉体という名の乗り物を「私」だと認識するように誘導しているのです。本来の「私」は、「神」と呼んでもおかしくない存在なのに、まやかしの肉体コンピュータの中に飼いならされて、いともたやすく監禁されてしまっているのです。

私たちは本来の自分で考えるより、肉体に考えさせています。肉体=自分ではないのに、その幻想の虜になっています。すべて肉体コンピュータの思考や感情なのに、それを自分だと信じ込んでしまっている。アインシュタインも言っています。「人間の真価は、コンピュータの自己からどれだけ解放されたかによって決まる」

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選択・意志と現実化 [願望実現]

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ゼロポイント・・・・例えば、あなたが本を読もうと決めた瞬間、それは「選択」されたわけですから、ちゃんと読むという現実になります。現実化とは、「選択(決意)」することだからです。でも、読もうと決める「コンマ何秒か前」の瞬間には、本を読む可能性(本を観察する可能性)と、読まない可能性(観察しない可能性)との両方の現実が「重ね合わせ」の状態で、同時にゼロポイントに存在していたわけです。共存していたのです。

あなたが想像しうる「全ての現実(状況)」は、宇宙のゼロポイントに、意識エネルギーとして重ねあわせで共存しています。ゼロポイントに存在しない現実は、夢見ることや妄想することさえ不可能なのです。考えつく、思いつく、イメージできるということは、ゼロポイントにあるからです。常識で凝り固まった頭が否定するような、どんな突拍子もない考え方でさえも、現実化して観察するためにゼロポイントに「ただ、ある」のです。

ですから、あなたの肉体を、「この人生において必ず死なせる」という現実と、あるいは「無限に生かし続ける」という現実、このどちらの現実体験も重ねあわせでゼロポイントにあるわけです。あらゆる選択肢が平等に、ゼロポイントに「ただ、ある」のです。肉体の生と死も、常に今この瞬間に重ね合わせ状態になっていますが、あなたが何かを選択し、決意した瞬間、その共存状態がバランスを崩して、どれか一つに決まってしまう。

もし、あなたが無限のいのちの肉体を「選択」しない場合、その現実の可能性は、ゼロポイントに重ねあわせで積み重なったまま、いっさい観察されない。私たちが「観察する」という意識がなければ、その現実は起こらないのです。つまり、「選択」して決意しなければ、不老不死の肉体は実際には創られないし、私たちがそれを体験することはできなくなる。ゆりかごから墓場までといったような「直線的な流れ」が時間の本質ではないから、全ての現実の時が「点」として、ゼロポイントに折りたたまれて今ここに存在しています。

私たちの意識の本質は、知らないことに興味を持ったり、疑問を持ったり、まだ体験していない物事を実体験したがります。常識に従って生きるだけでは、その本質的な欲求を満たしてあげることができず、結果としてあまりワクワクしませんし、つまらない気分になり、生きることにうんざりする日々になってしまいます。自らの自立した意志で、誰の価値観にも左右されず、いかなるプログラムにも左右されず、常識にも固定されず、純粋に自由に選択して決めることがとても大切です。

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